小普請支配(3)
「その長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)どのですが、正脩(まさひろ 63歳)叔父ごのすぐ上の姉上がお嫁(とつ)ぎになった長田家とは?」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、元服のあとあたりだったか、長谷川一族の系譜について、父・宣雄から聞かされたことがあった。
『寛政譜』に記されている元祖は、三方ヶ原で家康の馬前で討ち死した、紀伊守(きのかみ 享年37歳)正長である。
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻3[あとがきにかえて]で、長篠の戦争---とあるのは誤記。
三方ヶ原の戦いの4年前、駿河・今川方の田中城(現・藤沢市)を守っていた紀伊守正長には4子がいた。
永禄11年(1568)、武田信玄軍の猛攻にあった正長は、一族郎党と城をで、浜松の徳川の麾下へ入った。
息子3人も従い、乳児だった男子は、駿府の東北の瀬名へ隠れ、長谷川家の本拠・小川(こがわ)の「川」と田中城の「中」をとって中川を姓として残った。
【参照】2008年10月4日[ちゅうすけのひとり言] (25)
浜松へ移った3児は、それぞれ、
藤九郎正成(まさなり 1750石)、
伊兵衛宣次(のぶつぐ 400石)、
久三郎正吉(まさよし 4070石)
として徳川の家臣にとりたてられた。
銕三郎宣以(のぶため)の家は次男の系統であり、正脩は3男の系統である。
もっとも、3男の家は、3代目・正相(まさすけ)の次々弟・久太夫正栄(まさよし)が稟米500俵を分与されて分家を立てた。
正脩は、じつはこの分家の
2代目の3男で、本家の養子に入った仁である。
正脩のすぐの姉もおなじく養女として育てられ、長田十右衛門守乾(もりなり 650石)に嫁(か)した。
長田家の本家(700石)は、知多の大浜を領したころ以来の世良田(松平から改姓)広忠に与(くみ)していた家柄である。
正脩の姉は、嫁ぎ先で実子を産むことなく病死、継妻が入ったこと、13年前に守乾か64歳で歿し、継嗣が養子であったことなどで、
「交際は耐えていた」
「その大浜の長田一族と、小普請支配の長田越中守どとのかかわりは?」
「平氏・良兼流ということでは、遠い祖先でのつながりはあったろうが、いまでは別流のようなものであろう。いやに、長田どのにこだわるな。出世の早馬といったのが気にいったか?」
「おからかいになってはなりませぬ。銕三郎をさような軽い男をおおもいでございましか?」
「ざれがすぎた。許せ」
銕三郎は、しばらく記憶をあらためていたが、
「もしかして、越中守どのは、京で禁裏付をなさっていたお方では?」
【参照】2009年9月4日[備中守宣雄、着任] (4)
「御普請奉行から小普請支配におなりになったが、その前は、たしか都にお勤めであったような---」
「お訪ねして、お伺いしてみたいことがあります。お引きあわせください」
「妙な頼みごとをするのではあるまいな?」
「銕三郎をお見そこなわないでください」
「分かった、数日のうちに手配しよう。用が片付いたら、夕餉(ゆうげ)前に、養母(はは)がちょっと顔を見せてたもれ---とおっしゃっていたが」
「ご機嫌をうかがいましょう」
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