赤井越前守忠晶(ただあきら)
「伯父上。先手・弓の2番手のお頭・赤井越前さまをお引きあわせいただけませぬか?」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 63歳 1450石)の下城を待ちかまえて頼んだ。
正直の屋敷は、前々から一番町裏丁通りに800坪ほどを拝領している。
(長谷川本家・太郎兵衛正直邸 1番町裏丁通り)
太郎兵衛正直は、もう10年間も先手・弓の7番手の組頭をつづけてきた---といっても、このまま終わる気はしていない。
その間に、火盗改メを2度勤めた。
いまの火盗改メの本役は、赤井越前守忠晶(ただあきら 47歳 1400石)であった。
先手・弓の2番手のお頭に、この安永2年(1773)の正月に小十人組頭から出頭し、同年7月9日からは火盗改メを役(えき)している。
「父が健在でありますれば、かようなことで、いちいち伯父上をわずらわすことはないのですが---」
「それはそうだな。宣雄(のぶお 享年55歳)どのの帰館のときに一言頼めば、翌日には手はずがかなっていたろう。銕(てつ)は人使いが荒いと、宣雄どのはこぼしておられたぞ」
「ご冗談を---。しかし、親に頼みごとをするのも孝行のうちでございますれば---」
「孝行したいときには親はなし---であろうが」
「まったく---」
正直は、用人の磯辺(いそべ 48歳)を呼び、裏六番町の赤井邸ヘ伺いに行かせた。
赤井越前の屋敷は、善国寺坂通り---このあいだまで日本テレビ通りと呼ばれていた、その日本テレビの社屋のあたりにあった。
同じ番町内の長谷川本家からは、小半刻(こはんとき 30分)もかからない。
「宿直(とのい)の次席与力・脇屋(清吉 きよよし 45歳)どのがお会いくださるそうでございます」
磯辺用人が戻ってきて告げた。
【ちゅうすけ注】先手・弓の2番手の次席与力は天野甚造ではなかったのか? とおもうファンも多かろうが、あれは小説での登場人物。史実では脇屋与力である。
そういえば2009年2月8日[高畑(たかばたけ)〕の勘助](7)に登場した筆頭与力・館(たち)伊蔵(いぞう)も史実の人物である。
銕三郎は、供の松造(まつぞう 22歳)をせかし、暮れなずむ御厩谷を西へ横切り 赤井邸に至った。
火盗改メが組頭の自邸を役宅にすることは、いまではファンのあいだでも常識であろう。
赤井越前守忠晶の屋敷は、1000坪近くあるので、仮牢や白洲を敷地の一画にしつらえるのもさして苦でなかったことは、2000石の本多采女紀品(のりただ 60歳=安永2年 2000石 表六番町)のところでも記した。2008年2月16日~[本多采女紀品](5) (6) (7) (8)
松造が門番に、訪門者の名と脇屋次席与力に訪(おとな)いが告げてある旨を伝えた。
門番は、供が一人きりなのを見て軽々しくあつかい、のそのそと与力部屋へ向かったが、あたふたと戻ってき、丁重に銕三郎を案内した。
脇屋与力は、館筆頭から4年前に銕三郎のことを耳にしてい、門番を叱ったらしい。
【ちゅうすけ注】ついでだから補記しておくと、2年後、赤井越前守が着任した先手・弓の2番手の組頭に、長谷川太郎兵衛正直が組替えで転じ、その縁で、さらに12年後に銕三郎(そのときは平蔵宣以)が組頭として就いた。
もちろん、そのときには館筆頭も脇屋次席も隠居しており、その息子たちが役をこなしていたのだが。
もう一つ加えると、赤井越前守は、翌安永3年(1774)3月には、病没した京都東町奉行・酒井丹波守中忠高(ただたか 享年63歳 1000石)の後任として転出している。
【参照】2009年11月22日[京都町奉行・備中守宣雄の死](4)
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