日光への旅
「おや、井関さま---」
翌日の昼、戻ってきた松造(まつぞう 22歳)のうしろの、井関録之助(ろくのすけ 24歳)の姿をみとめた太作(たさく 62歳)がおどろいた。
日光街道の草加(そうか)宿の旅籠〔岩木屋〕長七方の門口である。
「仔細は松造どのから聞いてくれ。それより、飯だ。腹がへっている」
太作が泊まった部屋へ、昼餉(ひるげ)の用意ができるまでの虫おさえにと、向かいの茶店から草もちとせんべいを、番頭に買ってこさせた。
草加宿は、野田が醤油づくりの本場になってから、醤油によるせんべいを名物にくわえた。
草もちをほおばっている録之助を横目に見ながら、松造が話したところによると、往復6里(24km)を歩きづめで疲れたこともあり、江戸の手前の千住大橋で舟をやとった。
(千住大橋 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
大川橋(吾妻橋)の手前で、はっと気づいた。
「わが殿に相談すれば、きっと、井関さんに用心棒を頼めとおっしゃるはず、と」
(大川橋 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
それで源森川から横川へ入ったところで舟を待たせ、大法寺の隣に建てられている茶問屋〔万屋〕の寮へかけこんだ。
わけをきいた録之助は、すぐに、長谷川屋敷へ。
「若---殿さまは、なんと仰せられた?」
「録よ。お上の日光参詣に先がけて、お参りしてこい、ってなものさ」
平蔵は、3両(48万円)の旅費とともに、忠告を 一つ添えた。
「どんな事態になっても、太刀を抜いては、ことが面倒になる。高杉道場が閉じられたときに持ち帰ったはずの鉄条入りの木刀をもっていけ」
将軍・家治(いえはる)の日光東照宮詣(もう)では、3年後の安永5年(1776)の初夏に行われた。
大行列であった。
供に加えられた幕臣たちは『寛政重修諸家譜』に麗々しく書き加えている。
菅沼攝津守虎常(とらつね 59歳 700石)は、将軍参詣の翌年まで、日光奉行の職にあった---というより、この大行事を画策した老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 55歳 相良藩主)の意を帯しての赴任だった。
日光奉行の在地は、夏組と冬組にわかれており、菅沼摂津守は、秋から春先への冬勤務であった。
旅籠は、雨による川留めでもないかぎり、ふつうは昼飯はださないのだが、とくべつにととのえた。
3人は、手ばやくすませ、1里28丁(7km)北の次の宿場、越ヶ谷(こしがや)へむかった。
太作と松造が並んで歩いた。、
録之助は、木刀を入れた袋を肩に、前の2人にはかかわりがない者のように、しかし、なにかあったたらすぐに前へ出るべく、3間(5m)ばかり後ろをわき見をよそおいながらついていた。
前の2人は、知らない者には、親子づれに見えたかもしれない。
越ヶ谷宿では、なにごとも起きなかった。
(越ヶ谷宿部分 道中奉行製作『日光道中分間延絵図)
ほっと一息ついたとき、宿はずれの元荒川に架かった橋のたもとからでてきた4人ばかりが、行く手をさえぎった。
中の一人、〔左利(ひだりき)き〕の佐平(さへい 30歳)がすごんだ。
「おい、爺ぃさんよ。痛い目にあう前に、ふところのものをこっちへ渡してもらおうか」
,(越谷宿はずれの元荒川 同上)
ついと前へでた録之助は、すでに木刀を袋からとりだしていた。
「胡麻の灰らしいな。佐渡奉行どのから、坑道の水運び人足が足りないからって頼まれていてな。ちょうどよかった、いちどに4人、都合がついた」
男たちが黙って短刀(どす)を抜いた瞬間、うち2人がしゃがみこんでうめいていた。
佐平が左手で突きを入れたときには、すでに短刀を落として左腕をおさえてとびはねていた。
のこる一人が逃げかかるのを、とびかかって肩を撃った。
よろめいて、倒れた。
あっけなかった。
腕前の差があまりにもちがいすぎた。
録之助は、4人の目先に木刀をちらつかせ、
「骨折させては、佐渡で人足をしてもらえなくなるから、手かげんしてやったのだ」
宿場役人に縛り綱をもってかけつけろと告げに、松造が問屋場へ走った。
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