豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(4)
ほとんど闇に近い部屋で、平蔵(へいぞう 36歳)は、目を凝らしていた。
老中・田沼侯(主殿頭意次 おきつぐ 64歳 相良藩主)の側女中の於佳慈(かじ 31歳)が里貴(りき 37歳)を通じ、太田備後守資愛(すけよし 44歳 掛川藩主5万石)が、ちかぢか、西丸の若年寄主座に発令される旨を平蔵の耳にいれておくように伝えた、その真意を忖度(そんたく)していたのである。
太田備後が、有名な武将で歌人でもあった太田資長道灌(どうかん 享年55歳=1487)の子孫であることは、もちろん、承知していた。
道灌は源六郎の若いころから大志をいだいており、人をかろんじるふうがあった。
父・資清(すけきよ)が杉障子に「驕者不久(驕慢な者は久しからず)」と書き、障子の桟はまっすぐだから立っいられるといさめると、源六郎は屏風を持ちだし、曲がるから立っていられると反論、「不驕者亦不久(驕慢でなくても久しくはない)と書き、きびしく鞭打たれたという。
資愛から8代前の資高(すけたか)は江戸で歿し、江戸城の西の平河の法恩寺に葬られた。
当寺はのちに隅田川の東の出村町へ移座し、花洛・本国寺の触頭(ふれがしら)、江戸三ヶ寺のーであった。
(法恩寺 『江戸名所図会』 )
【ちゅうすけ注】銕三郎(てつさぶろう)が剣の修行にはげんだ高杉銀平道場は、法恩寺のすぐ西隣にあった。
道灌にちなむ『江戸名所図会』は、ほかに3景ある。
「含雪亭より士峯(ふじ)を望む」
わが庵は松原つづき海ちかく富士の高根を軒端にぞみる
「山吹の里」
七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞわびしき
「道灌山聴虫」
まくり手にすずむしさがす浅茅かな (其角)
家康は、江戸城へはいると、名家の子孫を探し、とりたてた。
太田資高の孫むすめ・加知(かじ 梶とも記す)も召されたが、13歳と幼なかったので、大奥の老女・安西に預け、成熟を待った。
記録には、関ヶ原の陣に59歳の家康に、23歳の彼女が騎馬でしたがったとある。
陣中の地を勝山と変えたとき、加知も於勝(かち)と改めた。
『徳川諸家系譜』の家康の項には、
御部屋於加知之方 太田新六郎康資之女、他ニ勝レ御愛妾、初女子御出生其侭御早世ニ付、愁嘆不少ニシテ一筋に菩提ノ志思付、剃髪ノ御願有之ケレトモ更ニ御免ナク---
家康の歿とともに落飾、家光にも慕われた。
入寂65歳。葬・鎌倉は英勝寺。江戸は瑞勝寺。
平蔵があずかりしらないことを記す。
大正8年(1919)に上梓された松平太郎さんの名著『江戸時代制度の研究』の」「火附盗賊改」の結語に、
この職に任じられて英才をもってその著名が伝わっているもの、長谷川平蔵宣以(のぶため)、中山勘解由直守(なおもり)、太田運八郎資統(すけのぶ)あり。
【参照】2006年6月8日~[現代語訳『江戸時代制度の研究』火附盗賊改] (1) (2) (3
太田家の分家である運八郎資統は、天保13年(1842)10月5日から弘化元(1844)10月15日までその職にいたことしかわからない。
資統の父・運八郎資同(すけあつ 3000石)は、平蔵が本役時代に助役(すけやく)を2回勤めた。
【参照】2007年10月10日[太田運八郎資同]
自分より8歳年長の太田備後守資愛と、どこでどうつながるかを思慮してい、掛川城の天守閣がうかび、ひらめいた。
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