田沼意次の世子選び(4)
このとき、一橋家には、田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石 のち2000石)のほかに、先任の家老がいた。
水谷(みずのや)但馬守勝富(かつみち 67歳 2200石)であった。
西丸・書院番4の組の番士である平蔵(へいぞう 36歳)の番頭の水谷出羽守勝久(かつひさ 58歳 3500石)の一族である。
勝久が本家筋で、勝富は分流。
水谷家が備中高梁(たかはし)・松山藩(5万石)を領していた元禄6年(1693)に、世継ぎの不手際で廃藩になったことは、勝久にかかわる項ですでに記している。
【参照】2007年4月22日[寛政重修諸家譜] (18)
2008年1月23日~[水谷(みずのや)家] (1) (2)
勝富の祖が分家したのはその一代前であったために、分知の2000石が5万石没収の際に給されたと理解しておこう。
一橋家家老(『柳営補任』より)
水谷但馬守勝富
任 安永7年(1778)1月17日(作事奉行ヨリ 64歳)
転 天明5年(1785)6月24日(留守居 71歳)
田沼能登守意致
任 安永7年(1778)7月28日(目付ヨリ 38歳)
転 天明元年(1781)閏5月18日(41歳)
民部卿嫡子豊千代養君につき供
翌19日小姓組番頭格奥勤
小姓組番頭格奥勤という職は初めて目にしたので、具体的にどのような分掌なのか分からない。
田沼意次が手くばりしたにちがいないから、もしかすると、大奥対策要員かとも推測している。(存知よりの方に教えを乞うとともに、今後の研究課題としておく)
【付記】辻達也さん『一橋徳川家文書適録考註百選』に、
・高岳(たかおか)
花園
飛鳥井
御ふじの方
・滝川
野むら
砂野
・大崎
・高橋
大奥と宮廷の女性とおもわれる9人の名があがっている。
深井雅海さん『天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割』では「・」の4人を老女としている。
老女といっても、婆ぁさんではない。いまなら、おんなざかりであろうが、年齢をたしかめるすべをしらない。
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コメント
史実の細部まで目がとどいていて、いろいろと想像がふくらみます。含蓄の多いテキストです。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.02.11 07:24
原文のまま提示されると、読みなれていない身には、いささか苦痛です。
ということは、いかに、ちゅうすけさんの現代語訳のお世話になっているかということでもあります。
あらためて、感謝。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.02.12 17:01
>文くばりの丈太 さん
たまには、原文もいいかとおもったのですが、以後、注意いたします。
投稿: ちゅうすけ | 2011.02.13 11:24