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2011.02.10

田沼意次の世子選び(3)

民部卿(一橋治済 はるさだ 31歳)さまの思惑(おもわく)が通ったな」
一橋の嫡男・豊千代(とよちよ 9歳 のちの家斉 いえなり)が、家治(いえはる 45歳)の養子として西丸入りした翌日だから、天明元年(1781)閏5月19日、梅雨があけきらない、蒸す宵であった。

2人がいっしょに入っても底が抜けない盥桶で行水をすまし、浴衣で呑みなおしていた。
今夜の里貴(りき 37歳)は、腰丈の寝衣でなく、並丈のを羽織っていたが、あいかわらず、右膝を立てているため、裾は割れいた。

もっとも、寝間には入らない。
月の障りがおわったばかりだった。

「3年前に横丁さまが一橋のお伝(でん 家老の旧称)にお受けになったときは、まさか、こうなるとはおおもいではなかったでしょう」
里貴が口にした〔横丁さま〕とは田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石)のことである。
屋敷が小川町広小路横丁にあったために、親しい者たちのあいだでの愛称であった。

もっとも、一橋家のお伝のまま逝った先代の能登守意誠 おきのぶ 享年53歳)と区別するために、〔市左(いちざ)さま〕と呼ぶ者もいないではなかったが、これとても意誠がつかった市左衛門をちぢめた愛称といえばいえた。

意致の個人譜を見ると、この家系は老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 64歳)の次弟・意誠から始まっており、長子は専助主水市左衛門を名乗るしきたりになっていた。

里貴が一橋の北の火除地角で茶房〔貴志〕をやっておったときに、意致どのも客としてみえたかな?」
里貴が〔貴志〕の女将をまかされていたのは、安永2年(1773)から3年ほどであった。
平蔵が家督をゆるされた日に出会った。
それから1ヶ月ほど後には、わりない仲となっていた。

参照】2010年1月18日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () (

「〔横丁さま〕は、あのころはお目付をなさったいるとかで、相良意次)侯が、それはそれはお気をおつかいになっておられて---」
「そのころの、〔市左〕どのが里貴と出会っておれば、今宵の2人はなかったかもな」
「なにをおっしゃいますことやら。(てつ)さまだからこうなったのです」
「ありがたく、受けておく」
「いいえ。出会えて感謝しているのは、私のほうです」

里貴が両親を看取り、紀州の貴志村から江戸へ戻ってきてから、すでに3年近い歳月が経っていた。
2年前に、将軍・家治の嫡子・家基(いえもと 享年18歳)が突然に逝った。

西丸は、2年間、主(ぬし)がいないまま、小姓組だけは本丸へ移り、小納戸は解かれていたが、ほかの体制はほぼ維持されていた。
徳川一族の誰かが主になることはわかりきっていたからであった。

上層部は、家基の喪があけるのを両睨みですごしていた。
右目は、家治に次の男子をつくってもらうこと。
左目は、養子の選定。

先の先が読める田沼意次は安永7年7月28日には、早くも甥・市左衛門意致(38歳=当時)を一橋の家老に送りこんでいた。
将軍・家治への発言力、親密度がもっとも強いのは、従兄弟の民部卿治済と読みきっていたからであった。

今年---天明元年、宿老会議の長老格・松平右京太夫輝高(てるたか 57歳=享年)は病床にあった。

民部卿さまの目算は、いづこにあるとおもうかな?」
「おなごの私が申すのもおこがましゅうございますが、男子であれば誰でも、政治へのお口だしかと---」
「しかし、豊千代さまは、まだ、9歳---」
゛お上も、いま、45歳の男ざかり---」
「とすると、15年後を見据えて---?」
「お上は、60歳---」
{若君は、24歳---」
相良侯は、79歳---」
民部卿さまは、46歳---」

播磨守(田沼意知 おきとも 33歳)さまは、48歳---目の上の---」
「---邪魔者」

里貴なら、いかな手をうつ?」
「---除きます}

「,除くとして---」
相良侯の悪評をふりまき、お為派を増やします」
「お為派は、どこにもおる」
「はい」

「15年後、われらは---?」
「私は52歳の老婆---」
「わしは、51歳の爺ぃ---」
「おほ、ほほほ---」
「あは、ははは---いや、笑いごとではないかもな」


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_360_2
_360_3
(田沼能登守意致の個人譜)


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