長谷川家と林叟院(2)
こブログに先行し、2002年12月から、鬼平のホーム・ペイジを立ち上げた。
(このブログを立ち上げてから6年間、まったく更新していない)
そのとき、〔居眠り隠居〕さんとおっしゃる上毛あたりにお住まいとおぼしい鬼平ファンの方から、こんなコメントがついた。
貴名HP、一鬼平ファンとして興味深く、楽しく、心躍らせ、ワクワクしながら拝見しました。
ところで、長谷川家の出自について、ちょっと気になるところがありましたので、差出がましいとは存じましたが一筆啓上致しました。
私もこの事について研究中なのです。
「平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷の流れをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣の代になって、大和の国・長谷川に住し、これより長谷川姓を名のったそうな。
のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。義元が織田信長の奇襲をうけ、桶狭間に戦死し、今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった。
長谷川正長は、織田・徳川の連合軍が、甲斐の武田勝頼と戦い、大勝利を得た長篠の戦争において、[奮戦して討死す。年三十七]とものの本にある。
この長谷川正長の次男に、伊兵衛宣次という人があり、これが、長谷川平蔵の先祖ということになる。
伊兵衛宣次から八代の当主が、長谷川平蔵宣以だ」
以上、文庫巻3「あとがきに代えて」からですが、千葉琢穂著『藤原氏族系図第2巻秀郷流』の下河邉氏族――長谷川氏の項によると、正長が討死を遂げたのは長篠の合戦ではなく、三方原合戦ですね。
そのほかの記述はすべて符合しています。
下河辺氏族について
天慶の乱(10世紀中ごろ)で平将門を討ち取り、室町期のお伽草子『俵藤太物語』の主人公として、龍王の頼みを聞き大ムカデを退治した伝説的な英雄、藤原秀郷より八代、太田太夫行政の子たちがそれぞれ成人し、兄政光は下野国小山に居を定め、小山・結城の祖となります。
弟四郎行光は天仁2年(1111)、源義綱反逆の時、その鎮圧の軍功によって、下総国葛飾郡下河邉庄に地頭として住し、家号を下河邉と定めました。下河辺氏発祥の起源です。下河辺氏の初代をこの行光にするか、次の義行にするか、『尊卑分脈』でも分かれますが、本題とは関係がないので、省略します。
ちなみに、この下河辺庄を現在の地名で現せば茨城、埼玉県史などによると古河、五霞、総和、松伏、栗橋、庄和、杉戸、吉川、春日部、岩槻、越ヶ谷、三郷、野田など茨城、埼玉、千葉3県に係る、幅10キロ長さ50キロにも及ぶ地域であったようです。
二代行義はまたの名を清親、藤三郎、四郎、恒清坊と号し、源三位頼政とともに平氏打倒のために戦い、『平家物語』では藤三郎清親、平治物語では藤三郎行吉の名で活躍ぶりが描かれています。
宇治川の戦いに敗れた後、僧形となり荼毘にふした頼政の遺灰を笈に隠し身を潜めますが、子の行平が頼朝によって元のごとく下河辺庄司を安堵されたので古河に帰還、息子を別当に古河城内に頼政明神を建立しました。
三代下霜河辺庄司次郎行平は鎌倉幕府草創期、頼朝の側近中の側近として活躍しました。
頼朝は「日本無双の弓の名手」とたたえ、「頼家君の御弓の師」に任命。
ついには「下河辺庄司行平が事、将軍家ことに芳情を施さるるのあまり、子孫において永く門葉に準ずべきの旨、今日御書を下さると云々」(『吾妻鏡』建久611月6日)という最高の栄に浴した、知る人ぞ知る武将。
『吾妻鏡』には 100箇所ほど行平に関する記述があり、その弟たちには次のような人たちがいます。(略)
忠義、武勇の四郎政儀は頼朝の寵愛をえ、河越重頼の女を娶り、後継の男子にも恵まれ常州南郡惣地頭職としてその前途は洋々、順風満帆と思われていました。
この頃、頼朝と義経兄弟の仲が微妙になります。
頼朝は「義経が馬鹿なことをするのも独り身だから。妻帯すれば変わるだろう。どこぞに良い姫はいないか」
白羽の矢がたったのが河越重頼の郷姫、つまり四郎政義の妻の妹です。
兄弟仲が日毎に険悪化しているのを知っている重頼や政義はいやな予感に襲われたことでしょう。
しかし最高権力者の意に逆らうことは出来ず、「河越太郎重頼の息女上洛す。源廷尉に相嫁せんがためなり。これ武衛の仰せによって、兼日に約諾せしむと云々。重頼が家の子2人、郎従30餘輩、これに従ひ首途すと云々」(元歴元年〔1184〕9月14日の条)ということになったが、果たせるかな、郷姫輿入れから1年後、
「・…今日河越重頼が所領等収公せらる。これ義経の縁者たるによってなり。・…また下河邉四郎政義、同じく所領等を召し放たる。重頼の婿たるが故なり」(文治元年〔1185〕11月12日の条)
まさに悪夢は現実のものとなったのでした。重頼は斬られ、政義は石岡以南の広大な領地を取り上げられ、その身は兄行平の許にお預けとなり、その領地は行平の子が相続しました。
政義はいわば、義経処分という大義名分の犠牲になったのではないでしょうか。
しかし政義ほどの武士ですから、やがてまた『吾妻鏡』に名が出てきます。
文治3年(1187)11月11日には頼朝の上洛に先立って、朝廷への貢馬が3頭進発しますが、政義はその使者として京に向かいます。
建久元年(1190)11月7日、入洛した頼朝に従い先陣畠山重忠の随兵3番手として行列に加わっています。同2年正月3日小山朝政が頼朝に飯を献じたおり、御剣は下河邉行平、御弓箭は小山宗政、沓は同朝光、鷲羽は下河辺政義、砂金は朝政自らが奉持して御坐の前に置いた、とあります。
同年8月18日頼朝の新造の御厩に、下河辺行平らから贈られた16頭の馬を、政義ら5人の武士が試乗、将軍にご覧にいれました。
同3年6月13日、頼朝が新造御堂の現場に来ます。
畠山重忠、下河辺政義、城四郎、工藤小次郎ら梁棟を引く。
その力は力士数十人の如きで見る者を驚かした・…。
まだまだありますが、割愛します。
下河辺政義は復権したと見て間違いはないでしょう。
その後正義は益戸姓を名乗り、かつての領地常陸国南郡方面に出て活躍したものと考えられます。
南郡惣地頭職時代は志築(茨城県千代田町)に館や山城を築いたといわれ、益戸となってから千代田町と八郷町の境界線上にある権現山に、半田砦を築いたようですが、浅学の身、詳しいことはよく分かりません。
ところで、下河辺政義には3人の子がいたようです。
○行幹(三郎兵衛尉)――行景(和泉守)――宗行(四郎左衛門尉)――行助(和泉守)――顕助(下野守)
○政平(左衛門・小河次郎)――能忠(七郎)――義廣(七郎・左衛門尉)
○時員(野木・野本乃登守)―ー行時(二郎)――時光(同二郎)――貞光(乃登守)――朝行(四郎左衛門)
(『尊卑文脈』)
○行幹(益戸二郎兵衛尉、母河越重頼女)――行景(和泉守)――宗行(四郎左衛門)――行助(和泉守)――顕助(四郎左衛門尉・下野守・従五位)
○政平(小川二郎左衛門)――朝平(小太郎)――景政(高原四郎)――能忠(小川七郎)――義廣(七郎左衛門尉)
○時貞(野本能登守、行高・従五位下)――行時(二郎)――貞光(能登守)――朝行(四郎左衛門)
(『群書類従完成会編』)
2書を比べると、長男行幹流についてはほぼ相違無し。次男政平流については尊卑文脈の政平と能忠の間に朝平、景政が入り、三男時貞流については群書類従系の行時と貞光の間に時光を加えれば、2書はまったく同一となる。両書とも 800年以前を書いた書としてはかなり正確な、信憑性の高いものと考えてもよいのではないでしょうか。
問題は、先生がお書きになられた「先祖書」の冒頭部分です。
「大織冠釜足より八代鎮守府将軍秀郷九代の後裔下川部四郎、実名知らず」とあるのは、明らかに下河邉四郎政義のことであると断定してもほぼ間違いないのではないでしょうか。
「『寛政呈譜』に下河邉四郎別称(益戸)政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣、大和国長谷川に住す。これにより長谷川を称す」(藤原氏族系図 第2巻 秀郷流)
とあるのも政平までは間違いのない所だと考えられます。
しかし、肝心の三代後に初めて長谷川を名乗った、という次郎左衛門政宣の名が見当たりません。
尊卑文脈は、その編纂後のことは記載される筈も無く、下河辺系図もその分流を数代にわたって綿密に書き込むなどということはないのが当たり前です。
先生のご指摘の『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』は不勉強でまだ見ておりませんが、これらの先祖書がまるで出鱈目を書いて提出したとはとは考えられません。
幕臣が幕府に提出する先祖書を偽ったり、故意に粉飾するなどそんな不謹慎な真似はある筈もなく、当時の武士は他家がどのような家系であるかぐらいのことは知っており、従って虚偽の系図を提出する余地はないと思われます。
下河辺氏は『吾妻鏡』にも数多く書かれており、『吾妻鏡』をいちばんよく読んだ日本人・徳川家康は、当然のことながら藤原秀郷や下河辺行平の故実にも明るかったと考えられます。
ですから、家康から何代かたってはいても、出自に関して虚偽の申し立てはしていない。
ただ年号や何代目かなどの細かい点については、あまりにも古く、かつ家譜の正確な記録を持たないために、若干正確さに欠ける点がある、と見るのが妥当ではないでしょうか。
先に引用した、下河辺四郎政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣が、始めて大和に住み長谷川を称したというが、この年代もはっきりしません。
そこで同時代に生きた兄行平の四代の後裔はいつ頃生きたかを調べてみると、文永年間(1264~75)です。次に名前が出るのが、長谷川家の初代とされている、駿河国で今川義元に仕えた長谷川藤九郎正長。
主君義元が永禄3年(1560)桶狭間で敗死後、徳川に仕え元亀3年(1570)三方ヶ原の戦で戦死、時に37歳。
およそ1270~1560の間が空白期間となっているのです。
この空白期間を埋めるものが、先生お調べの「駿国雑記」ではないかと考えられます。
また、正長から以後の系図は先生ご提示の「寛政重修家譜」が他本とも一致しているようです。
「末葉下野国住人結城判官頼政三男、小川次郎政平長男小川次郎左衛門正宣長男 始 藤九郎一、元祖 本国生国 駿河 長谷川紀伊守正長」をどのように読めばよいのか、判断に迷うところです。
「末葉下野国住人結城判官頼政三男」どこから、なぜ、この語句が出たのかさっぱりわかりません。
下河邉氏の出自で述べましたが、下河邉の兄が小山であります。小山氏から中沼、結城が出ていますので、下河邉と結城とはかなり近い関係にあります。
そんなことと関係があるのでしょうか。
小川政平は、下河邉四郎政義の次男、それから数代の後裔・政宣が大和に移り住み長谷川を名乗るようになった。
さらにその後、その子孫藤九郎正長が駿河に移り住み、駿河長谷川家を興した、これが平蔵家の本家であると考えたいのですが、いかがでしょう?。
老人の頭でいろいろ考えますと、ますます糸が複雑に絡みあってしまい、解けなくなってしまいまいそうです。
これに対してのレス。
いやぁ、〔居眠り隠居〕さんどころか、現役顔負けの碩学ぶりです。
ご指摘のとおり、「下野国住人結城頼政」は、たしかに下川辺の系図のどこにも見あたりませんね。
『寛政譜』の 160年ほど前にまとめられた『寛永系図伝』の長谷川家の項は、藤九郎から始まっています。
「藤九郎 のち紀伊守と号す。駿州小川に生る。のち田中に居住す。今川義元没落ののち、東照大権現につかえたてまつる。元亀3年(1572)12月22日、遠州三方原の戦場におひて討死。37歳。法名存法」
『寛政譜』にある「秀郷流」は記されていません。それで推察できるのは、『寛政譜』提出にあたり、藤原秀郷から小川次郎政平までを、いわゆる系図屋と称する者たちが無理やりつなぐ、例の系図買いの噂です。
居眠りご隠居さん02月27日(木)のコメントで、ご隠居は、文庫巻3の池波さんの「あとがき」をお引きになりました。
「平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷の流れをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣の代になって、大和の国・長谷川に住し、これより長谷川姓を名のったそうな。
のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。
義元が織田信長の奇襲をうけ、桶狭間に戦死し今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった」
そして、「『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』のために提出した先祖書がまるで出鱈目を書いて提出したとはとは考えられません」とおっしゃいました。きのう、静岡県立図書館で史料をさがしてて、おどろくべき史料を見つけました。
静岡大学の教育学部長・小和田哲男さんの著書『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日発行 清文堂出版)がそれです。
小和田さんは『寛政譜』の、
「下河邉四郎別称(益戸)政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣」
につき、「今川氏重臣長谷川氏の系譜的考察」の章で、政義とその次男の政平の時代は鎌倉時代の人物だから、三代目の次郎左衛門政宣は鎌倉末期か南北朝初頭に生きていたことになる、と疑問を呈したあと、
「近年になって、静岡市瀬名の中川和男家から長谷川家にかかわる古文書が数点発見され、長谷川家の系譜について新しい事実が明らかになった」と、出現した「長谷川・中川家記録写」から、政平から政宣までの 200年間の空白を埋めています。
その詳細はあらために別の機会にご紹介するとしましてご隠居へのレスに、「『寛政譜』提出にあたり、藤原秀郷から小川次郎政平までを、いわゆる系図屋と称する者たちが無理やりつなぐ、例の系図買いの噂」と書いた全文を、いそぎ削除させていただきます。
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コメント
そもそも、大和の長谷川って、苗字だったの
でしょうかねぇ。長谷川党っていう、武士団
の名を、益戸国行家来の一部、高師冬に滅ぼ
された残党が、奈良に逃げたおりのっとって
苗字にしただけでは。
「川」が小川や山川と同じで付くのが、
「山」「川」が苗字の小山氏系と同じで、
ごろが良いので、勝手に苗字にしちゃっだだ
けの、そうとう安直なネーミングだったのか
もしれませんよね。
投稿: 長さん | 2012.02.23 13:57
>長さん さん
実に示唆に富んだコメントありがとうございました。余命1ヶ月といくばくか、という身を
管類につながれて末期病棟に横たえていますと、とんでもない発想がもたらされます。それは、関東から流れてきた長谷川氏(下河辺氏)の残党が拠ったのは初瀬の里の長谷寺の侍僧としてではなかっのかというひらめきでした。あのころの社会ではありえますね。
身の回りにはパソコンしか置いてません。このブログの先行きも見えていますが、これからもご教示ください。
投稿: ちゅうすけ | 2012.02.28 05:17