ちゅうすけのひとり言(69)
『大岡政談 1・2』(東洋文庫 1984.07.10 12.10)に収録されている話のうち、実話は「天一坊」「白子屋お熊」「直助権兵兵衛」の3件---が編者の辻 達さんの指摘である。
鬼平ファン、池波小説好きとしては、「雲切仁左衛門」も加えたいところだが、辻さんは嘉永のころの芝居がタネであろうと。
火盗改メが登場する事件としては「煙草屋喜八」が、当時の人情と貞節ぶりをうかがわせるので、ざっと端ょって粗筋(あらすじ)だけを紹介してみよう。
下総国古河(こが 現・茨城県古河市)に大きな穀物問屋があった。
江戸表にも出店(でだな)13軒も置くほどで、主人の名は吉右衛門、19歳の一人息子が吉之助。
この吉之助を、世間を知るためにと、江戸の両国横山町の出店へやったところが、新吉原〔玉屋』の遊女・初瀬留(はせとめ)とねんごろになり、注ぎこんだ金が2800両(3億4,800j万円)。
そのことを知った父親は、吉之助を勘当してしまった。
生活の術(すべ)を知らない吉之助は、無一文の身では恋しい初瀬留に会うこともできないと、両国橋から身投げしようとしたところへ通りかかったのが座敷でなじみになっていた幇間(たいこもち)・五七であった。
吉之助から事情をきき、責任の一端は自分にもあるとわが家へ連れ帰り、「初瀬留もぞっこんで、噂ばかりしている」と告げた。
ある日、五七が吉之助とともに浅草寺へ詣でたところ、声をかけてきた男があった。
かつて古河の店で年季勤めをしていた喜八で、恩返しに自分が世話をするからと引きとったはいいが、麻布原町で女房とともにやっているささやかな煙草店には、吉之助分の布団もない。
女房・お梅(うめ 23歳)が自分が前借りで中働き奉公に出、質入れしている抱巻(かいまき)布団を請けだそうと提案した。
お梅の奉公口は、麻布我善坊(かぜんぼう)谷の先手組組屋敷の火盗改メ方与力・笠原粂之進宅で、前借2両(32万円)。
その金をもって布団の請けだしにいった喜八は、別の下質の者が渡した80両を質店の亭主がこともなげに手文庫へしまうのを見てしまった。
(あるところにはあるのが金だ)
【ちゅうすけ註】麻布我善坊谷に組屋敷があった先手組というと、鉄砲(つつ)組の第7の組と、第8の組である。
事件が大岡越中守の裁きであったということを信じると、享保年間に7か8の組で火盗改メをした組頭をさがしたら、
第7の組では、
享和9年(1724)9月11日任 杉浦八郎五郎勝照
同10年2月7日 解
第8の組
なし
『政談』では火盗改メは奥田主膳とあるが史実には該当者はいない。
その夜、喜八がくだんの質店へ金を盗みにはいったところ、先客の大泥棒に行きあってしまった。
その大泥棒が喜八の事情を聞き、恩義に篤いこころざしを誉(め)で、「女房をとりもどせ」と盗んできた80両をくれたはいいが、台所に付け火をして逃げ去った。
出火が仇(あだ)となった。
火盗改メが組の与力・同心を20人ばかり引き連れてかけつけてきたのである。
組下の一人がまごまごしている喜八の袖をつかみ、
「曲者ッ」
喜八はふところの出刃包丁で片袖を切って逃げおうせた。
が、残した袖が手がかりとなり、喜八は召しとらえられた。
「しめた」とほくそえんだのは、器量よしのお菊に野心をいだいていた与力・笠原粂之進である。
「お前の亭主は獄門だから、おれのいうことをきけ」
と言い寄ったが、お菊は喜八に貞節を誓っていて承知しない。
手ごめにしてもとおもいつめている主人・粂之進に愛惣をつかした中間・七助が、粂之進が組頭についての見廻りの留守にお菊を逃がし、自分も牛込へ去った。
お菊から事情を聞いた家主(いえぬし)平兵衛は義侠心をだし、速駕篭をのりついで古河へ。
事情をきいた穀物問屋・吉右衛門は気を変え、
「いかほど金がかかろうと、吉之助の恩人を救わねば---」
江戸へかけつけ、大岡越前に再審を願い出た。
書きわすれていたが、喜八の家には、吉之助恋しの初瀬留が新吉原を抜け出してころがりこんでいた。
喜八が処刑されるとの風聞を耳にしたかの大盗人・〔田子(たご)〕の伊兵衛が、自分が真犯人と自首して出てはきた。
大岡裁きのやりなおしとなり、中間・七助の証言もあり、笠原粂之進の職権を笠にきた横恋慕もばれ打ち首。
もちろん喜八は釈放、〔田子〕の伊兵衛はかずかずの盗みがあるが、喜八を助けるための自首は殊勝なりと島送り。
吉右衛門は、喜八夫婦に穀物の大店をもたせ、家主・平兵衛と幇間・五八にはそれぞれ300両(5400万円)を贈り、初瀬留は800両(1億2400万円)の身請け金を払っては吉之助の嫁に迎えたこといいうまでもない。
それはともかく、大岡越前守忠相は一審で誤審をしたからといさぎよく(?)、老中へ辞表を提出したが、もちろん慰留されて留任している。
こう書いてしまうと味もそっけもないが、その場その場での各人の台詞を想像すると物語がふくらんでこよう。
一例をあげると、大岡越前の辞表提出に驚いた将軍・吉宗(よしむね)の言葉。
゛汝、かならず早まることなかれ。いまだその者刑罰に行なわざれば再応取り調べ、この後しても出精相励むべし」
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コメント
長谷川平蔵が「今大岡」と世間でもてはやされていたという当時の諸誌の紹介から、大岡越前と将軍・吉宗との政治的なあいだから、さらには長谷川一族と大岡家の婚姻のことまで考究がおよぶこのブログは、まさに『鬼平犯科帳』から一歩抜きんでた、歴史エッセイです。
一歩抜きんでているのは、並みの鬼平ファンからもそうですね。
それを気にしているらしいちゅうすけさんは、ときどき色っぽい濡れ場をサービスなさいますが(笑)、気になさることはないてすよ。
このブログが長谷川平蔵研究の最高峰であることは、時が証明しましょう。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.03.29 05:39
>文くばりの丈太 さん
いつもお気にかけてのお励まし、ありがとうございます。
長谷川平蔵にこだわるようになって、15年近くが経ちました。
いまは、徳川時代を見るとき、平蔵の視線でながめられるようになったつもりです。
そうなってくると、いろんな事象が新しい意味を語りかけてくれるようになりました。長谷川平蔵にこだわって初めて、日本歴史の一端へ指がとどいたかといった感じといえば、おわりいただけましょうか。
投稿: ちゅうすけ | 2011.03.29 06:57