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2011.03.04

西丸の重役(5)

西丸老中のご用部屋を下がり、書院番士の詰め所へ戻るとすく、同朋(どうぼう 茶坊主)が、別の伝言をつたえてきた。

下城のとき、向柳原七曲がりの与板藩(新潟県長岡市与板町)上屋敷へ立ち寄られたい---との、若年寄・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 35歳 与板藩主 2万石)からの依頼であった。

(そういえば先刻の老中の用部屋にいた同年配の重役が兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)侯であったか。ひと言もお発しにならなかったから、つい、失礼つかまつった。お詫びに参上せずんばなるまい)

退出時刻((八ッ半 午後3時すぎ)のちょっと前に、与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 61歳 800俵)があらわれ、
「おことに同伴するように、与板少老さまからのお言いつけでな」
「それは勿体ないことでございます。用ずみのあとは、〔季四〕ででも、ご高説をおうかがいいたしとう---」
「おお、そのこと、そのこと---」

平蔵(へいぞう 36歳)は、松造(よしぞう 30歳)に、〔黒舟〕根宿(ねやど)店の女将・お(きん 37歳)に、七ッ半前(5時前)に神田川の万和泉橋下へ屋根舟を待たせておくこと、〔季四〕の女将には、牟礼与頭と七ッ半すぎに世話をかけることを前触れさせた。

そのころ、与板藩邸は外神田・七曲がり西端にあった。
(西丸の若年寄となって数寄屋門内に役宅)
兵部少輔直朗を西丸・若年寄に起用したのに関連し、それまでの本領・与板は陣屋であったが、築城の許しがおり、直朗は城主格として遇されることになった。
奏者番時代の口跡がよほどに明晰であったのであろうか。

藩邸の門番は、牟礼平蔵の来訪を待っていたように、邸内へ導いた。

表の客間で、家老格の西堀治右衛門(じえもん 53歳)が待ちうけていた。
ほどなく、直朗が着流しで出座した。
西陽の明るい部屋でまぢかに対座すると、齢より若く見えた。

「きょうの若君への捕り物ばなし、ほとほと、感服であった。じつは---」
西堀治右衛門をうながした。

領内、とりわけ陣屋のある与板の質商とか米穀商などに、ここ数年、押しいっている賊がいる。
町奉行所を置くほどの規模でもなく、手がまわらない。
押し入りがあって警戒を強めていると、動静がぴたりと途絶える。
まことにもって始末におえない。

「ついては、ご老中の鳥居丹波守忠意 ただおき 65歳 壬生藩主 3万石)さま、番頭の水谷(みずのや)出羽守勝久 かつひさ 59歳 3500石)どののお許しもえておるのだが、出張って賊を捕らえてはもらえまいか。旅費は小藩ゆえたっぷりというわけにはいかないが---」

番頭から指示をうけていたらしく、牟礼与頭は、平蔵に向かってうなずいた。
与板侯はお若い。辰蔵まで幕閣としてお目をかけていただけよう)
平伏して承知し、西堀家老格に、その賊が押しいった店の名、日時を書きそろえてとどけてほしいと頼み、酒肴の申し出を丁重に断わり、牟礼をうながして辞去した。

和泉橋下には、顔なじみの船頭・辰五郎(たつごろう 52歳)が屋根舟をもやっていた。


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2_360
3_360
(井伊兵部少輔直朗の個人譜)


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017幕閣」カテゴリの記事

コメント

平さん、こんどは井伊兵部少輔さんに目をかけられました。
同じ30代だから、末ながくさ付き合えそう。
もっとも、幕府とすれば、平さんにとってのことより、豊千代との長いつきあいを考えて井伊兵部少輔さんを配置したのでしょうが。

投稿: mine | 2011.03.04 04:06

>mine さん
平蔵とすると、西丸の書院番士としての決まりきった退屈なお勤めより、変事の起きそうな与板行きのほうが嬉しかったでしょう。

投稿: ちゅうすけ | 2011.03.04 09:26

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