火盗改メ・堀 帯刀秀隆(2)
この夕べ---天明元年11月晦日近く。
九段坂の一筋北、中坂下の料亭〔美濃屋〕へ招かれていた客、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 54歳 1000石)はすでに耳が遠くなりかけているらしく、話し手のほうへ頭をぐいとのり出して聞くくせが身についているだけに、みずからの声も必要以上に大きい。
目玉も大きいから、戦国時代の武将の風格をたたえていた、ということは、所作が無骨でもあった。
「長谷川うじ。建部どのは、こたびの増役(ましやく)は、三度目でな。その前、わしが火盗改メを拝命した年には加役(助役)として文字通りお助けいただいた。長谷川うじもいろいろとお教えをうけるとよろしかろう」
招待主の贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 41歳 300石)は、 助役(すけやく)の堀 帯刀秀隆(ひでたか 45歳 1500石)へいうべきことを、平蔵(へいぞう 26歳)にむかっていった。
(そうか、きょうのわれの役目は、顔つなぎにことよせた、この叩かれ役であったか)
3人の火盗改メのうちで、贄 壱岐守は最年少であり家禄も少ないが、階位は従五位だから、布衣(ほい)の2人よりも格は上だし、火盗改メの発令も早かった。
徳川体制---というより日本社会では、先任順がもっとも優先する。
それでいて、わざわざ建部甚右衛門の耳にも達するような音量で平蔵へ話した。
きちんと聞きとった建部増役は、目尻の皺を一段と深めた笑顔になっていた。
(ふだんは耳が遠くても、自分への褒め言葉はちゃんととどくらしい。褒め言葉をほしがりはじめたら老いの始まりとは、よくいったものだ)
平蔵は、腹の中で笑いながらも、建部老に頭をさげ、
「よろしゅうに、ご指導のほどを---」
頼んだ。
「なに、ご尊父の下で見習われたであろうが、教え手が異なれば、卒事も補えようというもの---」
建部増役はいい気分であった。
「増役さま。お訊きしよろしいでしょうか?」
「なにを?」
老がぎょろ目に戻した。
京都西町奉行のまま逝った亡父の後始末をして帰府には、往路と異なる中山道をとった。
その節、大津宿で建部大社に詣でたが、あれは、建部家の鎮守であろうか---と、追従ともとれる問いを発した平蔵へ、建部老は莞爾と膝をうち、
「建部大社の祭神は日本武尊(やまとたける)さまでな、わが家の姓は、同じ近江国神崎郡(かんざきこおり)の建部村(現・滋賀県南近江市のうち)の領主であったことによる」
平蔵は、大津に一泊したことは告げなかった。
京を出て大津宿で一泊という旅程を、久栄(ひさえ 21歳)は不思議がりもしなかった。
日が暮れてから、銕三郎(てつさぶろう 28歳=当時)は宿に頼んでおいた香華をたずさえ、湊口へ行き、合掌してから湖に沈めた。
(お竜(りょう 33歳)、20年ほど待っていよ。おれも行くから---)
小波が渡し場の杭にあたる音が、寝間でのお竜の甘え声のようであった。
【参照】2009年11月29日~[銕三郎、京を辞去] (1) (2)
建部老は、相手が興味をもっているかいないかに頓着なく語った。
「湖畔の伊庭(いば)村から建部村へ移り住んだときに姓としたのでな」
「伊庭と申されましたか?}
「さよう」
「堀 助役(すけやく)さま。鉄砲(つつ)の第16の組に鳥越亥三郎(いさぶろう 48歳=当時)どのはいまでも同心筆頭をなさっておられますか?}
平蔵は、堀 帯刀に訊いた。
みんなが建部老の自分話に辟易しているとみたからである。
「はて---?」
堀 秀隆の反応は鈍かった。
自分の組の同心筆頭の姓もおぼえていないとは!
「いや。いまの筆頭は、そのような姓ではなかったな」
贄 壱岐守が助け舟をだした。
「伊庭がどうかしたかの?」
平蔵が、〔伊庭(いば)〕の紋蔵という盗賊を取り逃がした13年前の一件を話した。
【参照】2008年11月31日[〔伊庭(いば)〕の紋蔵]
(建部甚右衛門広殷 『寛政譜』の広般は誤植)
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