火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷
「はあ? 建部(たけべ)さまからでございますか?」
平蔵(へいぞう 37歳)の不審げな声を、与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 62歳 800俵)がたしなめた。
「建部どのの組からきた同心の口上では、おぬしとは入魂(じっこん)の間柄のようであったがの」
「とんでもございませぬ。たった一度、お目にかかっただけでございます」
「会話は交わしたのであろう?」
「はい」
「長谷川。おぬしは、ここ(西丸)の書院番士となって、あしかけ9年になろう?」
「はい」
「それでもまだ呑みこめぬとは、困った仁よのう。役人同士というものは、1度言葉を交わしあえば、以後終生の知己になるのじゃ」
「はあ---」
「そうでなければ、役所ではことが進まぬ」
建部甚右衛門広殷(ひろかず 56歳 1000石)とは、火盗改メ本役・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 42歳 先手・弓の2組頭)がもうけた席で出会っただけであった。
ところが、幕府直轄の嶋田宿本通りの酒元に賊が入り、500両余(8000万円)が盗まれたために、糾明に同心2名を出張らせることにしたから、助(す)けてもらいたいと頼んできたというのであった。
「組頭の水谷(みずのや)伊勢(守勝久 かつひさ 59歳 3500石)さまはご承知なのでございますか?」
「組の名誉にもなるから、行ってやれと---」
「はあ---」
平蔵は嶋田宿往復104里(412km)の日数11日と糾明の3日を暗算し、
「それでは、18日ほど頂戴させていただきます」
「おお、20日でもいいぞ」
(建部どのは、牟礼与頭に3両(50万円弱)も包んだかな)
早引けし、四谷南伊賀町の日宗寺前の建部邸へ出向くと、応接の間でなく書院へ通された。
先客があった。
安西彦五郎元維(もとふさ 62歳 1000石 ただし隠居)と紹介された。
建部増役と同じく耳がとおくなりはじめているらしく、声が大きかった。
笑うと、とりわけ大口をあけて腹の底から発した。
建部増役は、平蔵を呼びつけた用向きなどそっちのけで、23年前に2人で、出羽・秋田藩20万余石に藩の仕置の不始末を訊(ただ)しに行ったときの思い出話に興じていた。
話の具合から察すると、安西老人が使番で39歳、建部老は小姓組番士で32歳あったらしい。
安西老はいく度も平蔵の齢を訊いた。
「37歳」
応えても覚えようとせず、
「広殷が32歳、わしが39歳のばりばりのときであっての。久保田(秋田藩)の宿老たちを[だまらっしゃい]と叱りつけて吟味をつづけたものよ。のう、広殷どの」
そして、わっははは、と歯が抜けた大口をあけて笑うのであった。
秋田藩の仕置の不始末とは、藩財政の打開のために発行した銀切手にかかわるもので、家中が推進派と反対派に2分して争った---いつでも、どの藩にもある騒動だが、幕府による銀山の召しあげを藩が呑まなかった見せしめの気配もあった。
そういえば、銕三郎(てつさぶろう)時代、田沼(意次おきつぐ)の木挽町(こびきちょう)の中屋敷で、秋田藩の鉱山から帰ってきたという平賀源内(げんない )に会ったことをおもいだしたが、老人たちの気炎に口をはさむ余地はなかった。
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