おまさの影(3)
「あのこが、大それたことをするはずがありやせん」
引きあわされた、60がらみの白髪も少なくなっている老爺・辰次(たつじ)は、水洟をすすりながらおてつ(25歳見当)という酌取りをかばった。
大井大明神(神社)の氏子総代仲間の蔵元・〔神座(かんざ)屋〕の主(あるじ)・伊兵衛(いへえ 54歳)から、妙な虫がつかないように気くばりしてほしいと頼まれた香具師(やし)の元締・〔扇屋〕の万次郎(まんじろう 51歳)が、その役目をふったのは、男としての精気がまったく失せたように見える辰次であった。
(置屋の主に若年増の虫よけを頼むなんざあ、猫にかつ節だあな)
辰次は笑いながら、毎日のようにおてつが働いている店へ顔をだした。
といっても、齢のせいで酒を1合も呑むと飯台に臥せって居眠りをはじめていたが。
それでも昼間、腹のややにいいからと、大井川の対岸の牛尾村の海水の温泉に、おてつを連れていったりして、まるで孫むすめを可愛がっているようであったと。
「それで、家族のことを話したかな」
「母親は幼いころに逝き、父親もおてつが10代の半ばすぎにみまかったが、兄が一人---」
「兄が---?」
「その兄は、家をでていったきりだと」
「ふむ---」
「好きな男ができたが、事情があって添えなかったので、つい、手近の男に身をまかしたが捨てられ、嶋田宿で行き倒れたところを、〔神座屋〕さんに救われたと話していやした」
「言葉に、尾張なまりがあったかな?」
「ありやせん。ときどき、上方なまりがでることはありやしたが---」
゛辰次どんの見たてでは、生まれはどこと---?」
「西ではありやせん。東---それも箱根からむこう---」
「ふむ---」
「お伊勢まいりの男たちの話しぶりに似ていやしたから、ひょっとして、江戸---」
「おてつというのは、ほんとうの名とおもうかな?」
「それが、あるとき、奇妙なこといいやした。生まれるややが男の子であったら、てつさぶろうかまたたろう、おんなの子ならあきとつけたいともらしたことがありやした。本人がおてつで、子どもにてつさぶろうという名は妙だと、あとでおもいやした」
「てつさぶろう---」
(てつさぶろう---まちがいなく、おまさだ。またたろう---〔狐火(きつねび)〕の勇五郎のところのお吉(きち 享年38歳)が産んだ子が又太郎といったような---。すると、添えなかった相手というのは、又太郎か)
【参照】2010年11月29日~[おまさと又太郎 ] (1) (2)
辰次が引きさがると、酒と膳がはこばれた。
「〔神座屋〕さんが造っているいちばん上品(じょうほん)の〔神水(じんすい)です。江戸へも菱垣(ひがき)船で下っておりやす」
すすめる万次郎に、平蔵(へいぞう 37歳)が、
「元締。甘えさせていただいてよろしいか?」
「なんぞ---?」
「松造(よしぞう 31歳)は燗が好みですが、拙は銘酒は冷やを所望いたしたい」
「お易いこと」
手を打ち、若いのに、冷やをいいつけた。
「長谷川さま。互いのあいだがらです、なんでも遠慮なく申しつけくだされ」
「かたじけない」
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