札差・〔東金屋〕清兵衛(3)
蔵元衆の定行事(じようぎょうじ)の一人---〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の初代・清助が上総(かずさ)の武射郡(むしゃこおり)求名(ぐみょう)村の出であることは、銕三郎(てつさぶろう のち平蔵)が少年だったころに下僕をしていた太作(たさく)から聴いた記憶があった。
太作は、
「同じ武射郡の小百姓の倅(せがれ)でも、蔵前・諏訪町の〔東金屋〕初代・清助のように商才で蔵宿にまでなった者もおります。清助は近くの求名村の出身でした」
ぐみょうという里名が耳なれしなかったから、どう書くのかたしかめた。
(青○=求名村 緑○=東金宿 赤○=寺崎村、片貝村 明治20年製作)
西丸・徒頭(かちのかしら)に足高(たしだか)として給される600俵の換金について平蔵(へいぞう 40歳)は、〔東金屋〕清兵衛にまかすことを内々に決めていたから、求名村に興味がわき、勘定見習の山田銀四郎善行(よしゆき 42歳 150俵)に采地主を訊き、江原家の1700石のうちの200石が求名村にあることを教えられた。
1700石の江原家は1家しかない。
幕臣のあれこれをしらべるときには、書物奉行・野尻助四郎高保(たかやす 68歳 役料200俵)と密約を交わしていた。
【参照】2011年1月31日[平蔵の土竜(もぐら)叩き] (7)
当主の孫三郎親章(ちかあき 17歳)がまだ出仕していないことのほかに、4代前の甚右衛門全村(たけむら)がかわいがっていた采地から奉公にあがっていたおんなが、嫁にいって産んだ男の子・清助が遠縁の蔵宿〔江原屋〕へ小僧として雇われるのに口をきいたことまで高保が報じた。
そういう平蔵の奥の手をしらない〔東金屋〕清兵衛が、一挙に平蔵に心服したことはいうまでもない。
要するに、平蔵の情報づかいの勝利であった。
清兵衛は、組内10軒の札差屋の集まりで、町奉行所が近々に奥印金(おくいんきん)の吟味をはじめるらしいから、もし、やっているなら、これまでの高利を幕府がきめた年1割5分(15%)に戻しておくように忠告した。
蔵前片町の札差屋〔伊勢屋〕次郎兵衛(48歳)が平蔵の盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 40歳)のところへかけつけ、元利合計50両(800万円)という奥印金の証書とひきかえに、4年分の利息ともで9両3分2朱(157万円)の証書をおいて帰った。
佐左(さざ)はきつねにつままれたようなおもいでその証書の表裏を長く眺めていたが、ついに真相をしることはなかった。
一方、平蔵邸には〔東金屋〕清兵衛が、日本橋瀬戸物町の〔伊勢屋伊兵衛〕の[かねにんべん]のかつお節3本入りの祝い箱を持参で訪れ、応接した久栄(ひさえ 33歳)に、
「お蔭さまで組内から縄つきをださないですみました。向後とも、ご指導のほどを---」
(〔かねにんべん〕伊勢屋伊兵衛 『江戸買物独案内』)
3本は、背筋2本に腹筋1本という正式な組みあわせであった。
さすがに贅沢になれている札差、心得ている。
平蔵が〔東金屋〕の札旦那---すなわち、蔵米受けとりの依頼主となったことはいうまでもないが、それ以上に、米相場の勘どころについて清兵衛から懇切な講義をうけたことのほうが大きな利得であった。
(荏原家・全玄・親章3代の家譜)
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コメント
格高の石と俵の関係が明らかになるとともに、蔵宿屋の〔東金屋}清兵衛との交遊を始める---平蔵というご仁は、ちっともじっとしていませんね。
まあ、部下が30人もいる徒の組頭になったのですから、人望を得なければなりません。期待しています。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.09.23 05:50
>左兵衛佐 さん
いつも、適切なコメント、ありがとうございます。
平蔵の部下おもい、こころづかいには、共感するところと、反省(いまや、手遅れですが)させられるところが多々あります。
人生、すべての先人が師---ですね。
投稿: ちゅうすけ | 2011.09.23 19:39
>tomo さん
あれきりにしてしまうのは、惜しいキャラでした。
それで、チョイ役でしたが、とりあえず出番をつくりました。
投稿: ちゅうすけ | 2011.09.24 11:49
25年ほど前に、ある雑誌に日本の老舗を連載取材したことがあり、にんぺんさんを調べたときに見つけました。
投稿: ちゅうすけ | 2011.09.24 11:54