駿馬・月魄(つきしろ)
「敬尼(ゆきあま 24歳)は月魄(つきしろ)にまたがる時には、下帯をつけるのですって---」
平蔵(へいぞう 40歳)のものをまさぐりながら、久栄(ひさえ 33歳)が笑いながら告げた。
「なぜに、そんなことをしっておるのだ?」
「辰蔵(たつぞう 15歳)が新しいのを3枚欲しいというから、問いつめたら、白状したのです」
平蔵も久栄の秘部をなぶりながら、月輪尼(がちlりんに)が法衣の下に男ものの白い下帯をつけている姿を想像して膨張させながら、
「まあ、鞍にじかに接するわけにもいかぬであろうよ。それより、桜色の下帯でもつくってやったらどうだ」
「ご冗談はおおきなさいませ」
去年(天明4年 1784)12月8日に、平蔵が西丸・徒(かち)の頭(かしら)に任じられたことは、すでに報じてある。
内密には、その年の正月に前任の与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 享年64歳 800俵)から耳うちされていたから、毎年師走の中ごろに浅草・藪の内で開かれる南部の3歳駒のせり市の試し乗りの札を、あらかじめ手あてしておいた。
(馬市 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
発令は、ぎりぎで馬市に間にあった。
馬市には、辰蔵(たつぞう 15歳)を伴い、いいきかせた。
〔3歳馬というのは、少年から青年へになりかかり---たとえたら声変わりのころといっていい。だから、形容を見るな。賢さをみよ」
亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の教訓の口うつしであった。
宣雄は、こうも教えてくれたが、付言をひかえた。
学ばせたほうがいいと判断したからだった。
「人は馬の躰形は忘れても、気質や性格、賢愚は覚えているものだ。人についても同じ--」
集められた馬のあいだを縫い、品さだめをした。
と、眉間の白徴がすこしくずれて三日月に見えないこともない鹿毛(かげ)が、平蔵親子に視線を注いではなさなかった。
【ちゅうすけ注】鹿毛とは、コーヒー色の体毛なのに、たてがみと尾、4肢が黒っぽい容姿の馬をいう。
博労の親方に、その馬の番号と親馬を訊いた。
親方は、目が高いと褒め、
「あの子の親は、賢いことで評判をとっていただ」
58両1朱(929万円)で落とした。
最後の1朱(1万円)のひと声がものをいった。
そのとき、馬は声の主をたしかめ、平蔵であることをしると、頭を伸ばして小さく嘶(いなな)いた。
「賢い馬だ」
平蔵がつぶやいた。
胸のうちでは、
(20年働いてくれれば、年3両(48万円)にもならない)
馬丁には、知行地の寺崎村で耕作馬を飼っている吾平のところの三男・幸吉(こうきち 19歳)が呼ばれた。
賢馬に、月魄(つきしろ)と名づけた。
月の精(せい)、月霊(がつれい)の意である。
「父上。ありがとうございます」
辰蔵のこころの底からの礼辞であった。
月輪尼と、わがむすめ・津紀(つき 2歳)をことほぐ命名であることを悟り、父の慈愛の深さを実感した。
隔日ごとの夕刻前、辰蔵が乗馬して大塚の富士見坂下、蓮華院の手前の横丁で月輪尼を待った。
比丘尼がまたがると、辰蔵が口をとって三ノ橋通りの屋敷へ導き、夜を津紀と3人ですごし、翌早暁、送り返した。
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コメント
よく、まあ、旗本退屈男みたいな三日月の白い徴しの馬がみつかりましたね。あ、写真が先かぁ。
敬尼がフンドシをして乗るというのにもふきだしました。そうですね、むかしの女はパンティつけてないからじかだもの。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.09.25 06:03
この馬の写真、いいですね。確かに賢そうに見えます。
馬の顔にもいろいろあって、また性格にもいろいろあって、面白いですね。
昔はきっと、目利きがいたんでしょうね。
投稿: numapy | 2011.09.25 16:40
>左兵衛佐 さん
おっしゃるとおり、写真が先です。
種あかしをしますと、ホワイト修正液で三日月にしました。
下帯の件は、おんなが鞍付の馬に乗ったらどうなるかを想像しました。女性から叱られそう。
投稿: ちゅうすけ | 2011.09.25 19:00
>numapy さん
英国の田舎で女王の愛馬の運送指定をうけている元騎手で調教師になっていた人の厩舎で大レースの優勝馬に引きあわされました。ほかの馬とちがい、ぼくのことを興味深そうに瞶ているので、元騎手に訊いたら、とても賢い馬なのだと教えられました、
投稿: ちゅうすけ | 2011.09.26 06:52