ちゅうすけのひとり言(77)
1年ほど前から疑問におもっていたことが、ひょんなことから、知恵の輪がぱらりとはずれたように、解けた。
その瞬間は、
「ワァーッ---」
齢甲斐もなく、声をあげたい気分であった。
疑問とは、幕府がある時期から職席に附した格高である。
それぞれの職席に格をきめた。
格は、石(こく)であらわした。
長谷川平蔵(へいぞう 40歳)に即していうと、去年の暮れ---天明4年(1784)12月8日(旧暦)、平蔵は足かけ12年間つとめていた西丸書院番4の組の番士から、西丸の徒(かち)の頭(かしら)に引きあげられた。
書院番士は300石格だが、徒頭は1000石格であった。
長谷川家は家禄400石の知行地を拝領していた。
知行地400石ということは、大ざっぱにいって4公6民という率にしたがえば240石分が長谷川家の取り分であった。
その取り分の米の多くの部分を市中で売り、生活費と家士たちの俸給にあてた。
一方、知行400石ならば年400両の収入とみなす。
1両を16万円に換算すると、年6400万円---幕府の役人は中央官庁勤めとおもっておこう。
1000石格の徒頭に栄進した平蔵は、格高1000石マイナス400石(家禄)=600石(足(たし)高)を別途に受けとることになる。
たいへんな増収であることは間違いない。
が、足高600石はそのままもらえるのか、これも4公6民なのか---疑念が生じた。
それが、きれいに氷解したのであった。
滝川政次郎さん『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫 1994)
平蔵は、この年(天明4年 1784)、布衣の侍となってその地位を向上せしめたのみならず、西城の徒士の頭となって六百石の足高(たしだか)を頂戴し、その家計を豊かならしめた。西城徒士頭も本丸の徒士頭と同じく、千石高の役であるから、世禄四百石の長谷川平蔵がそれになれば、その差額六百石の廩米六百俵を足高として支給せられることとなるからである。
そうか、浅草蔵前で受けとる役高の実質は廩米600俵か。
この廩米の1俵は3斗5升入りであったから35升。
1升の市価を100文(4000円)として、3500文---1両(4000文 16万円)に500文(2万円)欠ける。
1両16万円換算で、この廩米1俵は14万円となる。
このほか、札差(ふださし 蔵前商人)の市販手数料やら運賃などを引くと、手取りは1俵10万円あたりとみておこう。
平蔵の場合、600俵の足高で年6000万円増の収入。
これでいくと、1年半後に昇進した先手・弓の組頭は1500石高だから、足高1100石で、廩米1100俵。
1俵10万円と少なめにみても年1億円の増収。
ある程度は、金をばらまけたわけだ。
いや、実は、滝川政次郎さん『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫)は、これまでに幾度も読み返してきていた。
そればかりか、文庫になる前の朝日選書『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(1982)も、綴じ糸がきれているほど開いていた。
しかし、引用の文章を読みとばしていた。
格高の石数に疑問をいだいたのはこの1年ほどで、こんど、何気なくまた手にとったら、件のページが目に刺さった。
誇張でなく、刺さった。
問題意識をもって読まなければ、本は身につかないということをあらためて実感した。
長谷川平蔵についての疑問は、まだまだある。
それらをこんど書き出し、再度、こころにとめておこう。
アクセスしてくださっているあなたも、遠慮しないで疑問をコメント欄へ書きつけてほしい。
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