〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の相談ごと(2)
「-------」
「われの手にあまるほどの難事か---?」
口ごもる〔東金(とうがね)屋〕清兵衛(せえぺえ 40歳前)に、平蔵(へいぞう 40歳)がさりげなくさそい水をむけた。
清兵衛と平蔵の仲で躊躇いしているからには、よほどの密事と気をまわしてみたのであった。
「とんでもございません。ただ、恩義のある江原さまにかかわりますことなので、お旗本同士、ご都合もおありかと----」
かつて長谷川家の下僕であった太作(たさく 80歳に近い)から、〔東金屋〕の始祖・清助と大身幕臣・江原家のえにしを聴かされたことがあった。
【参照】2011年9月23日[札差・東金屋清兵衛] (3)
「江原家の蔵宿は、縁者がやっておる---」
「はい。御蔵前片町の[江原屋」佐兵衛さんで、手前どもの本家筋にあたる店でござます」
その〔江原屋〕佐兵衛店の番頭の一人と、江原孫三郎親章(ちかあき 17歳 1700石)の用人が組み、知行地からあがる年貢米の売り上げ代金をごまかして着服していたことが発覚した。
江原家の知行地は、
上総国山辺郡求名(ぐみょう)村 200石
同 香取郡返田(かやだ)村 42石弱
同 沢村 596石弱
同 岩部村 663石弱
など総計1700石余であったから、平年であれば、自邸の家士や使用人の食い分も差し引いても、1500両(2億4000万円)近い現金収入があるはずであった。
それが、このところの浅間山の山焼:けや天候不順で、1割5分ほど目減りしていた。
去年、年賀の挨拶に参上した〔東金屋〕清兵衛が元服したばかりの当主・孫三郎から、
「こころあたりをさぐってみてくれ」
内密の依頼をうけた。
天明4年(1784)の1年間、知行地の作づけと蔵宿・〔江原屋〕のうごきをそれとなく探っていたところ、〔江原屋] をゆすりにきた蔵宿師が、つまみだした対談方(たいだんかた)・浅田剛二郎(ごうじろう 47歳)に、
「江原家の用人とあの店の二番番頭が、薬研堀の〔草加屋]でしょっちゅう密談していることをしっとるのか」
くやしまぎれの捨て台詞をした。
〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)にあたってもらったところ、座敷仲居が白頭のねずみたちの姦計を小耳にはさんでいた。
「ついては、悪事(こと)を荒立てて、先々代が厚恩をお受けしている〔江原屋〕さんに泥を塗るようなことはできないので、この際、江原さまの知行米の売り立てを、お殿さまとお親しい、佐原の伊能さんに引き受けていただきたいとおもいました」
【参照】2011年9月21日[札差・〔東金屋〕清兵衛] (1)
なぜに〔東金屋〕で引き受けない? との平蔵の問いに、
「蔵米とちがい、知行米の売り立て扱い店の移動は、どうしても目立ちます。穏便にというのが手前の真意でございます」
(大身をわれの口から伊能へつないでやって顔を立たせようとの、〔東金屋〕のこころづくしだな。ありがたく受けておこう)
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コメント
江原家の采地のリストを拝見し、もしやと旧高旧領データベースで検索してみたら史実でした。
とすると、蔵前の定行事の東金屋も実在した札差のようにおもえてきました。
どうなんでしょう?
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.12.01 11:40
>文くばりの丈太 さん
ご明察のとおりです。蔵宿〔東金屋〕は諏訪町に実在していました。定行事役もやっていました。もっとも、そのころの店主の名は清兵衛ではなかったのですが。
できるかぎり、史実に沿い、当時を再現していくことをこのブログの根幹としています。
それだけに、地味になっても仕方がないと腹をくくっています。
平蔵の時代、うっかり人を斬ったりすると、あとの手続きが大変になるので、平蔵にはめったなことでは刀を抜かせていません。これも史実といえば史実です。
投稿: ちゅうすけ | 2011.12.01 13:12