松代への旅(10)
昼餉(ひるげ)を上尾・仲町の本陣〔林〕の前の飯屋でとった。
〔林〕は重々しい門構え、広そうな建屋(たてや)で、お江(こう 18歳)によると、このあたりではもっとも大きい本陣とのことであった。
資料によると、351坪ということだから、たしかに中山道では大きいほうにはいる。
(帰路は、ここへ泊まることになろう)
浦和から上尾は3里10丁(13km)。
お江 の脚をいたわり、2刻(4時間)ちょっとかけた。
男脚なら3時間の道のりであるが、平蔵(へいぞう 40歳)も松造(よしぞう 35歳)もその話題には触れなかった。
腹ごしらえをすませ、お江も用を終え、3人は残暑の陽ざしの中へ出ていったが、お江が、
「長谷川さま。右手の参道の奥の身代り不動尊(編照院)は名刹です。拝んでいきませんか?」
新義真言宗とあったのでちらっと辰蔵(たつぞう 16歳)の妻の於芳(ゆき 24歳)の顔がよぎったが、門前の花屋で訊くと、大和の長谷寺系ではなく京都の仁和寺系と教えられた。
(われとしたしたこととが、些細にこだわってしまった)
自分をいましめた。
神仏を軽んじないばかりか、むしろ崇拝(たて)ているほうだが、しきたりや功徳は無視してきた平蔵であった。
ふところから小銭をだし、お守りを求めてお江に与えた。
「帰路もつつがない旅であるように---」
「わあ、うれしい。長谷川さまが守ってくださるのですね」
胸元の奥、肌身におさめたようなのを横目で見た松造が、ふくみ笑いをかくさなかった。
「肌につけたら汗で湿(し)っけように---」
笑いながいう平蔵に、
「手ぬぐいをはさんでます。でも、乳のところ---」
お江は松造を無視していた。
「ややよりも先にお守りに乳を吸わせるのか?」
「いいえ。長谷川さまに---」
「松造。そういえばお通(つう)も18歳だが、ややはまだか?」
話題をそらすと、心得た松造が、
「そうでした。お通と粂(くめ 45歳)にもお守りを買っておかねば---」
「松造。この先、寺や神社はいくらもある。一人分にしておけ」
「はい」
さすがに気がついたらしく、鴻ノ巣(こうのす)宿までの2里28丁(11km)までは松造と並ぶことが多く、お通の恋と嫁入りの問答に熱中し、齢ごろのむすめに戻ったようだ。
【参照】2011年11月13日~[お通の恋] (1) (2) (3) (4)
2011年12月18日~[お通の祝言] (1) (2) (3)
東間(ひがし)村のあたりで東の空に黒雲がひろがり、鴻ノ巣宿のとば口、通称・三九郎前の石橋と地元で呼ばれている橋をわたりきったところで大粒の雨が落ちて、はげしい夕立がきた。
3人とも地蔵堂の軒下へかけこんだがずぶ濡れで、手拭いで顔と髪をふくだけで、跳ねかえるしぶきを眺めているしかなかった。
雨は小半刻(30分)もしないで、うそのように陽がさした。
暮れ六ッ(午後6時)まで1刻(2時間)はあった。
濡れた着物のまま中宿(なかしゅく)の脇本陣〔瀬山〕へ入ると、宿の者が気をきかせて早速に浴衣を部屋へはこび、風呂を焚きつけた。
部屋は3人別々であったが、平蔵が先に風呂へ行き、元どりをとって頭を洗っていると、結髪をほどいたお江が裸で入ってき、
「また、ごいっしょに浸(つ)かれます。こんどは、私の背中の垢すりをしてくださいますか?」
湯をかぶってから腰置きに背中を向けた。
ほどいた黒髪が腰のあたりまであった、
お江の手から手拭いをとって硬くしぼり、長髪を肩ごしに前へたらし替え、 昨夜やってくれたように左掌で肩を抑え、若々しく張りと艶のある肌をこすりながら、
(奈々(なな 18歳)の白すぎるのにくらべるほうが無理というものだ)
関東のおんな特有の濃いめの肌色であった。
手かげんしていても、肌は赤くなった。
平蔵のものは起きなかった。
背中をぽんと打ち、
「終わった。これでいいな」
その瞬間にこちら向きになったお江の双眸(ひとみ)が、浴場の灯火を映し、けだもののように燃えていた。
さかりの季節になった雌猫にたとえるのはお江に失礼だが、平蔵にはそのようにおもえた。
しばらく瞶(みつめ) あった。
久しぶりに剣術の間合いがよみがえった。
(ここで気を抜いては、相手に斬られる)
お江がまばたきをしたのを機に、手拭いを下腹へ投げかけて立ち、わざとふつうのままをお江にさらし、
「前のほうは、お江どの、おのれでこすれ」
湯船に浸(つか)った。
「どのはおやめください。お江と呼んでください」
「そうしてほしいのであれば、2人きりのときは、以後、そう呼ぶことにしよう」
「長谷川さまのことは---?」
「そうさな。徒(かち)組の組頭(くみがしら)ゆえ、お頭(かしら)がいい」
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