西丸・徒の第2組頭が着任した(2)
天明5年9月10日の『徳川実紀』に、
書院番瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳 500石)西城徒頭となる。
とある。( )はちゅうすけが補った。
属していた本丸の書院番頭はちょっと変わり者の大久保:玄蕃頭忠元(ただもと 41歳 6000石)であった。
名門ということでは、瀬名家の祖は今川氏の分かれで、府中(現・静岡市)の北東に館をかまえ、村名を姓とした。
徳川家康は名家の子女を好んだが、最初の年長の本妻・築山殿は瀬名儀広の長女であった。
伝右衛門貞刻の家は、徳川の家臣となっている瀬名5家の中では、本家にもっとも近い。
瀬名家かかわりで鬼平ファンに近い逸話は、これであろう。
【参照】2006年4月11日[若年寄・京極備前守高久]
貞刻が詰めの間での出仕の挨拶で、
「若輩のふつつか者ではありますが、よろしくお導きをお願い申しあげます」
これへの返しの辞が3人3様であった。
まず、3の組頭の沼間(ぬま)頼母隆峯(たかみね 53歳 800石)。
「謡(うたい)をおやりにならないかな。頭(かしら)たる者は、徒士にはできないものを習得しておくのが統率の要諦でござるよ」
4の組頭の長谷川平蔵宣以(のぶため 40歳 400石)。
「われもまだ1年もたっておらぬゆえ、至らぬことがいろいろとありましてな。ともにはげみましょうぞ」
5の組頭の桑山内匠政要(まさとし 61歳 1000石)。
「若君のお育ちをみとどけられるのは若い瀬名どのがもっとも近い。そのこと、肝に銘じてお勤めあれ」
新任のお披露目の宴についての場所を最年長の桑山政要に質(ただ)すと、
「瀬名どのにもなじみの店がござろうが、宿老・相良侯の息がかかった女将がやっておる〔季四〕という茶寮が深川にあり、長谷川どのが顔がきくし、往還とも屋根船で送迎してくれる。沼間うじもそちらもわしもそろって屋敷が番町ゆえ、1艘の乗り合いでことがすむ。いかがかな?」
招かれる沼間にも異はなかった。
早速、平蔵が奈々にもちかけた。
「桑山どのも沼間どのも2度目になるゆえ、目先を変えて朝鮮料理はどうであろうの?」
「井伊(兵部少輔直朗 なおあきら 39歳 与板藩主 西丸・若年寄)はんらのときの膳でよろしか?」
「十分だ」
【参照】2-111021[奈々の凄み] (1)
(瀬名伝左衛門貞刻の個人譜)
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コメント
西丸の徒の第2の組の者たちも札差しへの借金地獄だったんですね。
いまのサラ金地獄が徳川中期にはすであ幕府の下級士分のあいだにひろまっていたとは!
歴史はくりかえす、ですか。
投稿: tomo | 2012.02.14 05:09
瀬名伝左衛門が同僚になれば、今川の支流といった解説がさっとつくあたりが、このブログのすごいところです。ふつうでは、瀬名が地名とは連想しませんもの。
で、瀬名から築地殿へ飛べば、ああ、信玄に通じたあのご内室と、読んでいるがわも想像をふくらませられます。
投稿: 文くばりの丈太 | 2012.02.14 05:23
>tpmo さん
幕府の徒士は80俵ですから、1俵1両(16万円)として1280万円。病人さえ出なければ、いまみたいに税金が20パーセントもとられるわけではないし、家賃も御徒町の官舎ですし、お金につまるはずはないんですがねえ。やはり、人間って弱いです、酒、ばくち、おんな---。
投稿: ちゅうすけ | 2012.02.14 13:01
>文くばりの丈太 さん
静岡のSBS学園で鬼平クラスをもたせていただいたお蔭です。クラスの前に中央図書館へかよったりしましたから。とりわけ、盗賊の呼び名でもっとも多いのが静岡県とわかり、池波さんが家康に肩入れなさっていたことも知りました。盗賊の県下の出生地はほとんど訪れました。
これからは、それができない躰になってしまうようで、いささか無念。
投稿: ちゅうすけ | 2012.02.15 07:40