小笠原若狭守信喜(のぶよし)(5)
(深井雅海さん[天明末年における将軍実一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所研究紀要 昭和五六年度)を未見のまま、小笠原信喜の項をこのままつづけていいのかな?」
この数日間の逡巡である。
内通は考え方によっては、もっとも卑劣な行為である。
それを、信喜側の事情も調べないですすめようとしている。
ぼくがわの理由はあるにしても、都の中央図書館か国会図書館にはあるはずの資料も確認しないですすめることは是か否か?
懊悩していてもはじまらない。
できるところから手をつけるべきであろう。
さいわい、『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』は自家にある。
家人にいいつけ、病院内のコンビニのコピー機で小笠原信喜個人譜をつくった。
(入院前の数ヶ月間はオフィスのデザイン用の透視台にマス目の下シートをおいて位置ぎめをしていたから、あまり曲がらないできれいにつくれたが、病院内には透視台のような便利な機器はないから、正確にはなかなかいかないがお許しいただこう)
信喜が紀州藩士・大井武右衛門政周(まさのり)の子であることは家譜に記されている。
大井家が紀州藩においてどの程度の家格であったかまではまだ調べていない。
ただ、大井姓の藩士は、吉宗の江戸城入りにはしたがっていないことだけははっきりしている。
一方の小笠原家については、こんなことをこれまでに調べている。
【参照】2007年2月15日[ちゅうすけのひとり言] (8)
信喜が養子に入った小笠原家と、吉宗の重臣として江戸城入りした紀州藩年寄・小笠原主膳胤次(たねつぐ 60歳)との関連は、手元においている紀州藩士のリストでは分明しない。
つくっておいた戸城入りした紀州藩士200家のデータからは関係が読みとれないというだけのことで、いずれ紀州藩士名簿ででも確認したい。
もっとも、信喜はよほどに有能であったか、上層部に気に入れられたのであろう、800石であった養家の幕臣としての家禄を一代で10倍近い7000石にまでふくらませている。
これ以上の例は、田沼意次のほかには、加納家、有馬家ぐらいといっていい。
(閨閥となった岩本家などは別として---)
扶持の点にかぎっていえば、反田沼派となる要因はみあたらない。
いよいよ、[天明末年における将軍実一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――]の閲覧が待ちとおしい。
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