将軍・家治の体調(3)
思慮深い盟友の浅野大学長貞(ながさだ 40歳 500石)が名をあげた、横田筑後(守準松 のりとし 53歳 6000石)は、本丸の側衆のなかに2人いるご用取次の1人で、安永3年(1774)年から仕えてきている先任者であった。
2番手は本郷伊勢守泰行(やすゆき 42歳 2000石)で、田沼意次(おきつぐ 61歳=当時 安永8)に認められての小姓組番頭格からの抜擢であった。
もちろん、家治の好みも汲まれていた。
「平(へい)さんがどなたかさんのために案じているのであれば、痛手がもっとも大きいのは、一番近い身内の裏切りであろう---」
鰹の中落(なかおち)をほじっていた平蔵(へいぞう 41歳)が箸をおき、長貞をじっと瞶(みつ)め、
「大(だい)さん。聴かせてくれ。このところろ、西丸の若君・大納言(家斉 いえなり 14歳)が毎日のように本丸にわたっておられ、それにご用取次・小笠原若狭(守信喜 のぶよし 68歳 5000石)老がつきっきりとの風評がある。本丸はどうなっておるのだ?」
平蔵を見返して嘆息した長貞が、
「勘の鋭い平さんなら、その風評だけで、もう、察しをつけているはずだ。勘にしたがったらよいではないか」
「そうか。それほどにお上はお気がお弱くなっておられるのか---?」
「人間、天寿がきたと悟れば、これまでの寛容の仮面も落とそうよ」
「50の天寿か---」
秋宵-----。
平蔵は招きに応じ、月魄(つきしろ)に乗馬袴の奈々(なな 19歳)を乗せて木挽町(こびきちょう)の田沼家の中屋敷を訪(おとな)うた。
礼式をふんだ訪問ということで納得したらしく、月魄も奈々の乗馬袴に異議は示さなかった。
中屋敷での意次は、先客と話していた。
「おことがところまでは手はまわさないとおもうぞ---}
意次(おきつぐ 68歳)の透きとおるような声がそこまで洩れたところで、佳慈(かじ 36歳)が、
「長谷川さまと奈々さまが越されましてございます」
「うむ。通せ」
意次は、略式の部屋衣であった。
先客は、大坂西町奉行の佐野備後守政親(まさちか 55歳 1100石)であったで、里貴(りき 逝年40歳)の跡継ぎで紀州・貴志村の生まれと奈々を紹介した。
政親は堺奉行の職にあったころ、わざわざ貴志村を訪ねて里貴をはげましてくれた。
【参照】2010年11月7日[里貴からの音信(ふみ)] (1) (2) (3) (4)
「ほう。銕三郎(てつさぶろう)の兄者のような佐野です」
政親が神妙に頭をさげると、
「うち、おじちゃんをしってます。里貴おばちゃんちへ馬で来ィはったことのあるお偉いさんどすやろ。あんとき、みんなしてのぞきに行ったん」
「それはそれは---銕三郎、いいむすめができてよかったな」
「うち、むすめとちがいます。里貴おばちゃんの跡継ぎです。よろしゅうに」
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