盟友との宴(うたげ)
天明6年(1786)の閏10月のはじめ――。
「佐左(さざ)。浚明院殿(家治 いえはる)が薨じられ(享年50歳)、近侍の衆からただちに本丸へお移りになるようにすすめられても、そのうちにゆるゆると……と逃げをおうちなされたのは、西丸・大奥のなじみのできたのに泣いてすがられたからだと蔭の声がもっばらだが、真相はどうなのだ?」
笑いながら酌をすすめて訊いたのは、本丸・小姓組の浅野大学長貞(ながさだ 40歳 500石 )であった。
佐左と呼びかけられたほうは、西丸・書院番士・長野佐左衛門孝祖(たかのり 41歳 600俵)で、平蔵(へいぞう 41歳)をふくめ、初見いらいの盟友である。
年齢と家禄が近いせいもあったが、窮屈なおもいをしてまで出世することはないと決めているところに共感しあい、永つづきしているのかもしれない。
将軍・家治死をうけての大げさな葬儀や新将軍・家斉(いえなり 14歳)の将軍職の相続の儀式が片づき、新君は本城へ移っていたが、去月来のうわさを、大学がたしかめたのだ。
それだけ、佐左と大学は会っていなかった。
この日、3人は飯田町中坂下の料亭〔美濃屋〕の滝がのぞめる部屋で久しぶりの宴をもっていた。
初冬のことで、岩間から落ちる滝の流水は細かったが、残雪にえもいわれない風情があった。
「新君のおんな好きはうわさのとおりだが---」
いいよどむ佐左におっかぶせるように大学が、
「13歳か14歳でか?」
ちらりと平蔵に視線をやった。
「はるかいにしえのことながら、14歳であったわれは、25歳の後家にみちびかれ、立派に務めをはたしたぞ」
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
平蔵の14歳のときの初陣の手柄話は、佐左も大学も聴きあきていたから、それ以上はつっこまなかった。
(このことばかりは、平には勝てない)
いまさら、14歳に戻るわけにいいかないし、外での情事を内室が見逃してもくれまい。
「平(へい)の場合は、相手が 人妻としてよく耕かされていたから、うまく導かれたのであろう。西丸の大奥のおんなたちはも、いちおうは未通ということになっているのではないのか」
「40歳をすぎた男どもの話題とはおもえないぞ。それより、大(だい)、上さまについて本城入りした小笠原信喜(のぶよし 69歳 5000石)どのの動きはどうなのだ?」
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