江戸・打ちこわしの影響
ここ旬日、江戸始まって以来の不祥事といわれている市中うちこわしを、平蔵( へいぞう 42歳)がかかわったとおもわれる則面から記述した。
正面からとらえた詳細は、多くの史書に記録されているからである。
いまは終了してしまった静岡のSBS学苑〔鬼平クラス〕でともに学んできた一人――安池欣一さんから贈られたコピー、竹内 誠さんの労作『寛政改革の研究』(吉川弘文館 2009.07.10)に[寛政改革の前提]というブロックがもうけられ、
第一 改革の前提
――天明の打ちこわし――
はじめに
一 天明末年の政争
二 政争前の法令検討
三 将軍側近役の解任と江戸うちこわし
おわりに
第二 天明の江戸打ちこわしの実態
はじめに
一 分析史料の紹介
二 被逮捕者の分析
三 打ちこわしの対象と動機
四 打ちこわしの主体勢力
五 江戸と近在農民との関係
六 反権力・反田沼意識
おわりに
ほとんど50ページ――このブロックの7割強があてられている。
労作全体からいうと11パーセントのページ数である。
打ちこわしは、都市で生活をしている下層住民の、米よこせ的な騒擾(そうじょう)であったが、それまでの江戸が経験したこともないほど大規模な騒ぎでもあった。
同著によると、その区域は府内4里(16km)四方、北は千住から南は品川まで、米穀店をはじめ油商、質屋などの富商が狙われた。
町奉行所が逮捕・吟味した「下書」から一例をひいて、深川六間堀町に店借りをしていた彦四郎(31歳 提灯張り渡世)は、近年の米価の暴騰で妻子を養いがたくなっていたが、20日の夜、同じ店借り人8人と、深川森下町の家持ちで米乾物類店・伝次郎宅へ押しかけ合力を強要したがうけいれられなかったので、建具家財を打ち壊したために翌日召し捕えられたと。
5月20日の事件というので、大坂からの指令とか事前の密議などがなかったか、調書を念いりに読んでみたがその気配はない。
共犯の7名は獄中で病死とあるが、はげしい拷問のすえの衰弱死とも想像できる。
それほどはげしく責めるられたら教唆者がいればその名を吐いていたかもしれない。
もう一例――。
三田3丁目に住んでいた清吉(39歳 人宿寄子)は、たまたま遠出をしていた湯島で打ちこわしの現場に出会い、おもしろそうなので加わり、逃げそこない不運にも捕縛された。
こういう偶然の参加者も少なくなく、捕り方がくると、ほとんどは一目散に逃げおうせた。
打ちこわしへの参加者は24組5000人にもおよんでいる。
5000人の参加者で刑をうけた者は42名、うち5名は逃走中で処刑はされてない。
また、同書のどこにも、反田沼の旗印をかかげた騒擾組はいない。
にもかかわらず、
「田沼意次政権から松平定信政権へという幕府内部の政権交替を促進し、かつ決定づけた点からして、単なる飢饉による米騒動=経済的平等化闘争として位置づけるのみでなく、客観的には、きわめて政治的色彩の濃い世直し的反封建権力闘争としてとらえる必要があろう」(72ページ)
いや、冷害や旱魃、虫害、洪水などの自然災害による飢饉、米価の高騰は、全部が政権の責任というものではない。
為政者が問われるのは、そうした自然異変による損害としもじもの痛みをどう軽減したかであろう。
打ちこわしという事態についてのちゅうすけの関心は、打ちこわしを権力闘争に巧みに利用した――というか、もしかしたらそれを仕かけたかもしれない者がいたかどうかにある。
要するに、史家たる才能が薄いのであろう。
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