〔稲谷(いなたに)〕の仙右衛門
『鬼平犯科帳』文庫20に収められている[顔]は、かつての同門で、評定所の裁きにより切腹して果てた井上惣助に瓜二つの泥棒---〔嶋田(しまだ)〕の惣七を品川宿で捕らえてみると、父親は同じ旗本・井上惣左衛門であったという筋書き。
〔嶋田〕の惣七は、上方の首魁〔稲谷(いなたに)〕の仙右衛門の片腕とも軍師ともいわれていた男だが、頭の仙右衛門と仲たがいをし、仙右衛門の盗人宿から500両余をかすめて姿をくらまし、東海道すじ・南品川宿の品川(ほんせん)寺の脇へ潜んでいた。
(参照: 〔嶋田〕の惣七の項)
品川駅(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
年齢・容姿:どちらも記載されていないが、年齢は惣七が50歳代のようだから、60前後であろうか。
生国:越後(えちご)国頸城郡(くびきごうり)稲谷(いなだに)村(現・新潟県上越市稲谷)
池波さんは(いなたに)と濁らないでルビをふっているが、地元では(いなだに)とにごる。稲ができる谷なんて、西日本ならどこにでもありそうな村名だが、ここしか残っていない。まあ、日本海側と上方は海運でつながっていたから、江戸へ出るのと同じぐらい便がよかったし、池波さんは上杉謙信の史料集めに、しばしば越後を訪れてもいる。
探索の経緯:〔稲谷(いなたに)〕の仙右衛門は、持ち逃げされた500両余を取りもどすために派遣した3人が、鬼平の眼の前で〔嶋田(しまだ)〕の惣七を襲ったものだから、仙右衛門の存在がバレ、大坂や京都の奉行所へ連絡がとられた。
つぶやき:〔嶋田(しまだ)〕の惣七が500両余を持ち逃げしたのは、2年前のこととある。3人の追手のために費やした2年間の捜査費用はいかほどであったか。旅籠代や酒手・娼妓など年間1人50両では足るまい。2年で120両ほどか。3人で360両。このほかに飛脚代やらなにやらで---収支決算とんとんといったところか。
放置しておいたら、自分の存在を隠しとうせたかも知れないのにねえ、〔稲谷〕の仙右衛門どん。
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