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2006.05.13

平蔵色の一掃とは---

長谷川平蔵がまだ死の床にある寛政7年(1795)5月8日、まるで、早く薨じてしまえといわんばかりの拙速で、平蔵が組頭だった先手弓の2番手の組頭へ横すべりしてきたのが、松平定信とは同族の松平左金吾であった。

左金吾は横すべりした、と書いたのは、7年前、1500石格の先手組頭の座に、2000石の家禄の左金吾が降格の形でついていたからである。彼がいたのは、先手鉄砲(つつ)の10番手の組頭。そこから、弓の2番手へ移った。格は、弓のほうが鉄砲組の上である。

左金吾が、いそいでやろうとした平蔵色の一掃とは、佐嶋忠介や酒井祐助、木村忠吾らと、五郎蔵、おまさ、粂八、彦十といった密偵たちとの接触を絶つことであった。
すなわち、長谷川組の実績に貢献の大きかった五郎蔵やおまさに代表される密偵たちをお払い箱にすることであった。

証拠はある。
松平定信や左金吾と通じていて、平蔵の政敵の一人でもあった森山源五郎孝盛のエッセイ『蛋(あま)の焼藻(たくも)』に、火盗改メとしての自分のやり方は王道、密偵を使って実績をあげた平蔵のやり方は覇道---と京極備前守高久が評したと記している。
つまり、平蔵は、幕府が禁じている密偵を駆使して実績をあげたにすぎない、違法の結果の功績である、と攻撃したわけ。

源五郎は、つねに平蔵をライパル視していて、左金吾が弓の2番手の組頭になった同じ日---5月8日 に、平蔵は二度と立ちあがれまいからと、火盗改メ代行の辞令を受けている。
そして、平蔵が息を引きとるや、予定していたように、たちまち、正式の火盗改メに任じられた。
もちろん、先手の組が違うから、佐嶋忠介や酒井祐助は、当然、任を解かれたのたである。

保守・家柄派による平蔵包囲網は、着々と設営されていった。

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コメント

そんな拙速なやり方で火盗に任命された後、
実績はどうだったのでしょうか。

有能且つ経験豊かな与力同心密偵なくして、
お役目が果たせたかどうか気になります。

投稿: みやこのお豊 | 2006.05.14 10:03

やはり、たいした実績はあげていません。
まあ、やったのは、どろぽうを捕らえるのでなく、規則をつくったことくらいですか。

投稿: ちゅうすけ | 2006.05.14 15:59

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