対抗意識むきだし
長谷川平蔵の政敵---松平左金吾が、老中首座・松平定信派の隠密の報告書『よしの冊子(ぞうし)』に顔をだすのは、天明8年(1788)10月6日に火盗改メ・助役(すけやく)を発令されて---というより、定信を説きふせて強引にその席を手に入れてすぐである。
一. 松平左金吾は加役を仰せつけられたのはいいことだと、人び
とがいっているよし。左金吾殿は、去年の米屋打ち壊しの騒
動のとき、鎗をもって市中を巡回された人だと噂されているよ
し。
(注:ここでいう「加役」は、先手組頭が兼任する火盗改メ全般を指す場合と、火事の多い冬場に発令されるもう一人の火盗改メ---「助役(すけやく)」を指す場合がある。『鬼平犯科帳』では、この「助役」にまったく触れない)。
『徳川実紀』天明8年10月2日と6日の項
報告書をあげたのは、小人目付、徒(かち)目付といったきわめて身分の低い、したがって、どちらかというと器量の小さい、つまり、人物を小さくしか見ない者たちとおもってよかろう。
最初のうちは、政変によって為政者の座についた門閥派たちの気に入るように、アンチ田沼派を取材してまわる傾向がいちじるしかった。
平蔵と左金吾が火盗改メとなった10日後ごろの報告書。
一. 殿中にて長谷川平蔵、松平左金吾と御役筋について大いにい
い争ったもよう。どちらもきかぬ気の人だから、負けずにいいあ
ったらしい。
どちらもきかぬ気の人だから、負けずにいいあったらしい。
殿中でのことを、いったい、だれが隠密に洩らしたか。
先手組頭が詰める部屋はツツジの間である。そこで、2人がやりあったのを見物した組頭のだれかが、おもしろがって隠密に話したのであろうか。
その組頭は、どちらかというと、やり手の平蔵をやっかんでいた者であろう。ひそかに、左金吾へ声援をおくっていたものと推察する。
一. 加役を申しつけられたその日から犯人逮捕に働くのがこれま
では普通だったが、左金吾は急には諸事の打ち合わせも終
わらない、4、5日過ぎてから捕らえはじめよう、無理に捕ら
えることもないのだ、といっているよし。これまでの加役とは
流儀が異なっている。
長谷川は一体に毒のある人のよし。左金吾は毒のないと噂
されている。
これの発信源も、前掲と同様、アンチ平蔵グループの組頭である。
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