『よしの冊子』の左金吾
『よしの冊子(ぞうし)』は、松平定信家で、門外不出とされてきた、隠密たちの報告書である。
長谷川平蔵の火盗改メ時代に書かれたものだから、同時代の記録として珍重すべきだが、いかんせん、当初は、定信方の色眼鏡の色が濃すぎる。
天明8年10月末と推定できる報告書。
一. 左金吾の組の同心は30名いるのに、うち11名が病気と称
して出仕してこないので、こんなありさまでは、せっかくお
役についたのに、欠勤者が多くて他の組から人を借りてこな
ければならない。
これはあまりに外聞が悪い。
で、30人全員の家族状況を書きださせてたみたら、11名
の者は家族数が多いから、出勤しないのは貧窮のためだ
ろうと見てとって、11名に3両ずつ支度金を渡したよし。
そうしたらたちまち11名が出勤してきたよし。
手当をお出しになっても、よくもまあ、全員出勤の実をおあ
げになったと評判上々のよし。
前に記したように、松平左金吾差定寅の屋敷は、麻布・桜田町である。
火盗改メの組頭は、自宅を役宅にあてる。
なお、左金吾が組頭に就任したのは、鉄砲(つつ)組き8番手である。与力5人(ふつうは、与力10人)、同心30人。
組屋敷は、四谷左門横町 (現:新宿区左門町)である。左金吾の邸宅まで、徒歩20分か。
(切絵図は、尾張屋板、近江屋板とも、「先手組屋敷」と一括しないで、ここと長谷川組の目白台のみ、個人割りにしている。理由は不明)。
同じころの報告書。
一. 松平左金吾が加役中は役料を40人扶持ずつ下されているが
日々五ツ(8時)前に出勤してきた与力同心へは、宅より弁
当を持参するにおよばず、と炊き出しをして食事をあてがわれ
て いるよし。
五ツ過ぎに出勤してきた者へは振る舞われないとか。お役
についていらっしゃる間は物入りが多いのに、こんなお心
遣いまされては、いよいよ大変。まあ、ご本家がいいから
家計のほうは大丈夫とはいえるが。 ずつ下されているが
を持参するにおよばず、と炊き出しをして食事をあてがわ
れているよし。
五ツ過ぎに出勤してきた者へは振る舞われないとか。お役
についていらっしゃる間は物入りが多いのに、こんなお心遣
いまでされては、いよいよ大変。
まあ、ご本家がいいから家計のほうは大丈夫とはいえるが。
火盗改メの組頭の役手当の1日40人扶持---1人扶持は玄米5合。その40倍だから、2斗。1升100文とすると2000文---2分(1両は、平時は4000文。この頃は銭の価値が下がって6000文前後。
この役手当で、収監した犯人の飯代も、与力同心の宿直の茶代も、新しく雇った小者の給金も、仮牢の施設費もまかなう。
与力の火盗改メ手当ては、1日20人扶持)。
一. 左金吾はつねづね革柄の大小をさしておられるよし。加役
(火盗改メ・助役)を仰せつけられて登城された日も革柄だ
ったよし。
なんとも、子どもっぽい見栄っぱり。大人げない。
一. 松平左金吾は加役につくと、家来を江戸中の自身番へ差し向
け、
「加役中に左金吾の配下の者と名乗り、町家々々でもし飲食
物をねだったり、金銭を無心した者がいたら、召し捕って連行
してくるように」
との触れを置き、五人組の印形をとって帰ったよし。江戸中へ
これほどにするからには一大決心の上だろう、と噂しているよ
し。
先達てまでは本役加役の配下の者が自身番へ来たら、小菊の
鼻紙、国府の煙草、中抜きの草履を差し出すのが常識だった。
そのための費用が1町内で月に5、6貫(1両ちょっと)かかって
いたよし。
いまのようなご時世になり、こんなこともだんだんにやんできたの
で、町内は大悦びのよし。
とはいえ、先手組の同心を、役宅まで連行するほど度胸のある町(ちょう)役人がいるだろうか。
あまりにも見えすいた触れのようにおもえるが。
ま、着任早々の気がまえとしては、けっこう、けっこうといっておく。
メッキはやがて、はげる。
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