深井雅海さん[田沼政権の主体的勢力]
深井雅海さんの論文[田沼政権の主体的勢力]は、国史学会誌『国史学』(1978年10月)に発表された。
この論文の存在は、佐藤雅美さん『田沼意次 主殿の税』(学陽書房 人物文庫)の[参考文献]で知った。
論文が『国史学』誌に発表されていたことは、ミク友(ハンドル・ネーム)エムさんがW大学の蔵書を検索してつきとめ、読むことを熱望していると察し、コピーして送ってくださった。
深井さんは同論文で、吉宗が紀州から江戸城へは、紀州藩士200家余とその家族をともなっており、彼らを直参にしたとして、うち10数家の姓名を明記する。
その中に、田沼意次の父・意行(おきゆき)も選ばれていたことは、いうまでもない。
が、吉宗の選抜基準までは書かれていない。
200家余もの藩士を引きつれて入府した理由を2つばかりをあげると、
1.ずっと将軍を護衛し、政治を担当してきた幕臣たちを信用できなかった---というか、暗殺まで恐れたのではなかろうか。
2.吉宗が考える改革策を実現するためには、意思を忠実に汲み、実行していく紀州育ちの藩士のほうが信用できた。
吉宗は、御用取次と小納戸(将軍の身辺の雑用係)を紀州勢でかためたばかりか、西丸へ入った世子・長福のまわりにも紀州勢を手厚く配した。
さらに、三卿家を新設したことは、後継者問題もあったろうが、自分の没後、古くからの幕臣勢力によって元紀州勢が不当な扱いを受けないための予防策もあったかもしれない。
そういう視点からいうと、意次がやった紀州勢の抜擢は、とくに勘定奉行所にあらわれており、勘定奉行たちの家禄アップは目を見張るばかりである。
これから、徐々に、その記録をあげて考察をくわえていきたい。
なにはともあれ、エムさんのご好意に厚く感謝を。
コピーを一読、目の前に沃野がひらけたおもいがしている。
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