『甲子夜話』巻1-7
『甲子夜話』巻1-7
予、若年のころ(静山25歳 天明4年1784 3月24日)、新番衆・佐野善左衛門政言(まさこと 500俵 年齢未詳30代?)なる仁が、殿中で、若年寄の田沼(意知 おきとも 36歳)に切りかかった。
佐野を組みとめたのは、大目付・松平対馬守忠郷(たださと 70歳 1000石)。
現場に居合わせた人の話によると、佐野が刀を振りあげて切るまでは、対州はその背後についていたが、佐野が切りおおすのを見とどけて背後から組みとめたと。
同人が評するに、100年前、浅野(内匠頭)氏が吉良氏を打ったときの梶川某の組みとめ方は、武道を心得ているとはいいがたい。この感慨はもっともだと、心ある者たちは感賞したとも。
予も、この対州をよく見知っていた。老体で頭髪薄く、常は勇気あるようにはおもえなかった。
また、叔父の同姓越前(守信桯 のぶきよ 事件のときは小普請奉行)がいうには、佐野の刃傷事件では、御番所の前を田沼が通りかかったとき、後ろから佐野が「申しあげます、申しあげます」と声をかけながら抜いた刀を八双に構えて追いかけ、田沼が振り返ったところを肩から袈裟がけに切り下げ、返す刀で下段を払ったのを目のあたりにしたと。
あるいはいう。この刀は脇差で2尺1寸(63cm)、粟田口一竿忠綱だったので、これ以後にわかに忠綱の刀の値があがったと。
またいう。このとき田沼氏の差料の脇差は貞宗だったが、鞘に切り込みの傷ずついたと。さだめし、佐野が下段の払いがあたったのであろう。
田沼家のいい分だと、佐野の切り込みを受け止めたときの傷と。どういうもんだかねえ。
(ちゅうすけ注)なんだか、静山は嬉しそうに書いている(笑い)。疑念が生じるのは、大目付の対馬守が、万事承知していて佐野善左衛門の後ろをつけたのではないかということ。
意次はそこまで考慮しなかったか、対馬守はこの功で200石の加増をうけている。もちろん、手くばりしたのは意次。
この事件、池波さんは『剣客商売』で、どう書いていたかなあ。
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コメント
大石慎三郎さんは『田沼意次の時代』(岩波現代文庫)に、オランダ長崎商館長チチングの『日本風俗図誌』から次の文を引いています。
「この殺人事件に伴ういろいろの事情から推測するに、もっとも幕府の高い位にある高官数名がこの事件にあずかっており、またこの事件を使嗾しているようにおもわれる」
「もともとこの暗殺の意図は、田沼意次と息子の山城守(意知)の改革を妨げるために、その父親の方を殺すことにあったとさえいわれる。---しかしながら、父親の方はもう年をとっているので、間もなく死ぬだろうし、死ねば自然にその計画もやむであろう。しかし息子はまだ若い盛りだし、彼らがこれまで考えていたいろいろな改革を十分実行するだけの時間がある。のみならずまた、父親から、たった独りの息子を奪ってしまえば、それ以上に父親にとって痛烈な打撃はあり得ない---」
高官数人の中に、松平定信がいたと、大石さんは見ている。
このあたりが、池波さんに影響していないだろうか。
投稿: ちゅうすけ | 2006.11.27 12:52