相良の村々
12月18日のここの記事[奥州・下村から遠州・相良へ]で、若年寄にのぼりつめた奥州信夫郡下村藩主・田沼玄蕃頭(げんばのかみ)意正(おきまさ)は、亡父・意次(おきつぐ)の領知だった相良へ国替えする幸運を射止めた。
もっとも、亡父・意次の領知は、遠江(とおとうみ)国榛原(はいばら)郡相良を基点に100ヶ村---5万7000石におよんでいたが、意正の場合は、陣屋を置いた相良をふくめて25ヶ村・1万石であった。
25ヶ村のうち、16ヶ村を明治20年製作の地図でたどりえたので、掲出する。
(相良川の河口、左の赤○が相良、右の赤○は福岡)
その他の赤○は、上から下へ---(小数点以下4桁は4捨5入)
和田村 90.868
大寄村 513.574
黒子村 117.690
女神村 154.924
西山寺 69.067
男神村 173.469
松本村 230.775
菅ヶ谷村 781.291
波津村 318.454
須々木村 423.444
鬼女新田 48.054
落居村 183.263
笠名村 274.715
新庄村 464.198
のこりの9ヶ村については、地図上に表記がないか、地図外かもしれない。地元の鬼平ファンの方のご教示時を俟ちたい(同)。
堀切村 83.647
大磯村 136.166
法京村 26.451
平田村 487.793
坂井村 65.919
徳村 195.632
園村 295.441
東中村 166.557
西中村 145.963
以上の村々は、福島の藩内だった村々と比べ、地味の点は比較するデータをもたないが、気候的にはずっと恵まれていたといえよう。
また、同じ1万石とはいえ、岩代国と越後国の2国に分かれている場合と、榛原郡内にまとまっているのとでは、管理の難易、そのための経費の多少、さらには、江戸表の上屋敷への連絡の遅速なども比較してみる必要があろう。
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コメント
堀切村・大磯村・法京村・平田村・坂井村は相良からその北部の川崎川の間の海岸沿のところ、徳村・園村・東中村・西中村は菅ケ谷村の東側のようです。(相良町史 通史編 上巻 p543 によれば)
投稿: パルシェの枯木 | 2006.12.20 12:05
>パルシェの枯木さん
さすが、地元。ありがとうございました。
20万分の1地図にも載らないとは!
投稿: ちゅうすけ | 2006.12.20 12:51