越後頸城(くびき)郡の3000石
12月16日のこの記事に、天明7年(1787)、田沼意明が下知された1万石のうち、「越後国頸城郡についての手がかりは、いまのところ、なし」と書いた。
近くの図書館で、目にとまった平凡社版『日本歴史地名大系 福島県』(1993.6.15)で、偶然のように、陸奥・岩代国下(しも)村以下の7ヶ村の7000余石の明細が判明したことは、19日[奥州信夫郡下村藩]で報告した。
ついでだからと、期待しないで、『地名大系 新潟県』を開き、あちこちめくっていて、[西頸城郡]の項で、
「田沼意次の孫意明が天明7年1万石に復し、陸奥国下村(現福島市)と上出(かみいで)村(現糸魚川市)に陣屋を設け、上出陣屋では35カ村2906石余を文政7年まで支配した。これらの村々は田沼氏支配以前は幕府領であり、上知後は幕府領に戻った。
以下に田沼氏領の村名を谷ごとに記す」
ひゃあ、小躍り。
それにしても、35ヶ村で2906石余とは! ほんとうに谷間の痩せた土地だったんだろうなあ。
相良は、25ヶ村・1万石。福島は7ヶ村で7000余石。
コピーして、参謀本部陸地測量部が明治22年(1889)に製作した地図と照合。
該当の4つの谷は「高田」のページにはなく、西の「富山」のページにあった。つまり、越後国とはいえ、越中国との境界に近く、海岸は「知不親(おやしらず)」ぞいに東へ、背後には乗鞍岳、雨飾岳が聳えている。
35ヶ村中、32ヶ村に赤○ドットを貼ることができた。地図は、右(東)から左(西)へ(小数点4桁以下は4捨5入)。
早川谷(現・糸魚川市)
上出村 91.457
下出村 56.254
谷根(たんね)村 283.855
小坂村 20.706
西塚村 115.314
東塚村 148.293
五十原(いかはら)村 60.312
角間(かくま)村 58.261
北山村 105.883
砂場村 143.987
北越村 47.727
西越村 38.500
土塩村 87.076
猿倉村 63.931
吹原(ふきはら)村 126.705
大平(おおだいら)村166.654
土倉村 49.545
中河原村 119.652
西海谷(現・糸魚川市)
釜沢村 (旧高旧領に記載なし)
道平(どうたいら)村 150.828
川島村 115.434
真光寺村 46.153
市野々(いちのの)村 57.260
根知谷(現・糸魚川市)
御前山村 35.038
大神堂(だいじんどう)村
53.117
山寺村 59.922
別所村 52.830
大久保村 23.024
上山村 11.971
杉之当(すぎのと)村 37.842
西山村 32.384
蒲池村 99.612
川西谷(現・糸魚川市)
岩木村 63.849
頭山(つむりやま)村 100.530
今村新田 153.799
こんなリサーチになんの意味があるのか---自分の達成感だけかもしれないが、少なくとも、胸のつかえは氷解した。
まあ、意味があるとすれば、相良町(現・上之原市)教育委員会も、いくら田沼家のこととはいえ、他県分までは手をつくしていまいから、『相良町史』の追加資料としては役立つかも。
新潟県の糸魚川市とその近辺の鬼平ファンからの反応も期待できるかもしれない。
(注)『旧高旧領取調帳 中部編』の上記の村々の石高は、すべて「高田藩預分」となっていたから、幕府領を高田藩に管理代行させていたのかも。
(注2)『地名大系 新潟県』では、今井新田は青海町に属してしきたが、青海町は平成17年4月に糸魚川市へ合併された。
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