田沼玄蕃頭意正
12月14日の、田沼家が相良へ戻ったという記事で、1万石の領知が田沼玄蕃頭意正の名になっていることを、何気なく、告げた。
これは、不注意であった。
手元の『文化武鑑1 大名編』(柏書房 1981.9.25)の文化4年(1807)の項に、在所・信夫郡下村の領主として、突如、田沼玄蕃頭意正の名が記載されている。
文化元年(1804)7月家督
とある。
この意次の次男・意正のことは、12月11日の意次の上奏文を紹介した[親族縁座、義を絶ち縁を絶ち]で、田沼内閣で老中を勤めた水野出羽守忠友(沼津藩主。3万石)の養子(16歳)に迎えられたが、一件後、縁を解消されて田沼へ帰された(28歳)と紹介。
『寛政重修諸家譜』はさらに、「父がもとにかえり、田代を称す」と付すが、田代姓では『寛政譜』にひろわれていない。
田代姓にしたのは、田沼の一員としての類縁を避けたためか。
文化4年(18007)の田沼玄蕃頭意正の記載は図版のとおり。
引いている『文化武鑑1 大名編』の文化元年の項に、田沼主計頭(かずえのかみ)意定(おきさだ)という大名が収録されてい、
享和3年(1803)7月家督
とある。
意次の嫡孫・意明は、寛政8年(1796)大坂副城代として赴任中、その年の9月22日に大坂で卒している。24歳であった。(長谷川平蔵の卒した翌年)
七歳下の舎弟(意知の次男)・意壱(かず)は、意明の養子となって享和3年に家督したのであろう。
この意壱は大名として半年しか生存しなかった。享年25歳(意知の30歳代での事件死、意明と意壱の若死を、何かの祟りのように世間の悪意はいわなかったろうか)。
意壱の没後、田代姓を称していた大叔父・意正が復籍して後継したのであろう。
意知の実弟とはいえ、あいだに5人の姉、2人の兄(どちらも夭逝)がはさまっているから、意次にとっては孫のような年齢だったろうか。
(その後の調べで、意次41歳の時の子だから、孫はかわいそうか。意知とは10歳違い---ということは、意次は毎年のように子を産ませていたともいえる。側妾が複数いたのだろう)。
『文政武鑑』(柏書房 1982.12.24)は、文政元年(1818)の項に、嫡子・を併記している。
在所は、依然として信夫郡下村である。
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