平賀源内と田沼意次(つづき)
戦前に出た平凡社『日本人名大事典』(1938.3.5初版刊 1979.7.10復刻)に、平賀源内について人さわがせな数行があった。入牢した容疑について---、
発狂して人を斬りし説と、蝦夷において密貿易した機密書を見られたその人を斬った説とがあり、後説が近年信じられている。更に一説によれば、この事は田沼侯と関係あり、、牢中で病死と号し実はその手に救われ、遠州に隠棲して80余歳で歿したといふ。
(肖像:『偽作者考補異』所載 部分)
今井誉次郎さん『平賀源内』(国土社 世界伝記文庫3 1973.8.25)は、少年少女向きに書かれたやさしい文章だが、内容は、田沼意次についての捏造された風評を除くと、まあまあ、吟味されている。付された年表によると、源内が老中・田沼意次に「ひそかにあったのは明和6年(1769)、源内が41歳のこととなっている。
田沼意次は、秋山小兵衛と同じ享保3年(1719)の生まれだから、源内より10歳年長である。
明和6年といえば、2006年2月23日の当欄に引用した田沼意次の年表によれば、この年、意次は老中格に任じられている。
ただし、蝦夷開発のための探索計画が勘定奉行・松本秀持(ひでもち)によって提案されたのは、それから14年ほどのちの天明4年(1784)である。
今井さんの年表では、源内はその5年前の安永8年(1779)に蝦夷での密輸文書うんぬんの殺傷事件を起して入牢、1カ月後に獄内で病歿したことになっている。
屋根がつけられた源内墓石
田沼意次がひそかに蝦夷へ派遣して、植物や鉱物を探索させたという話のほうが想像力をそそられはする。が、意次との接点でえば、同年表にある明和7年の2度目の長崎遊学の便宜をみてもらったと、世俗的に考えるほうがまっとうだろう。
平岩さんは、『魚の棲む城』で、源内という多芸多才な仁を評して、意次の近親者の口を借り、
「ああ気が多くては、とても一つのことを成しとげられますまい」
とうがつ。
ま、戯文はともかく、田沼意次にひそかにあった翌年---すなわち明和7年(1770)に、江戸の外記(げき)座で上演された、新田左兵衛佐(さひょうえのすけ)義興(よしおき)の怨霊をうたいあげた『神霊(しんりょう)矢口渡』(風来山人集 日本古典文学大系55 岩波書店 1961.8.7)は、歴史知識はもとより口調もあざやかだとおもう。
矢口古事(『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)
忘れるところであった。源内と佐竹藩のつながりだが、今井誉次郎さん作成「源内の足跡地図」に記載されている久保田領内の鉱山は、院内銀山(秋田県雄勝郡雄勝町)と阿仁鉱山(同北秋田郡阿仁町)である。
も一つ。
源内の墓の右後ろ、一段と小さい墓石は、久保田生まれの従僕・福助のもの。
福助は源助より8カ月早く墓に入っている。その縁で源内が総泉寺へ葬られたとの説もある。
さらに、も一つ。
浄瑠璃『神霊矢口渡』は、福内(ふくち)鬼外(きがい)という人をくった筆名で発表された。
もう一つ、おまけ。
都庁公園課へ墓域の開扉について問いあわせた。公園内の施設でないから管轄外だが、とあちこち聞いてくれ、けっきょく、担当部署不明。しかし、開扉日は毎月第一土・日と命日の18日のみと。
ぼくは2月25日に行って半開扉ですっと入れたけれど、あれはなんだったんだろう?
臨時開扉の申請先は、けっきょく、わからずじまいだった。
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コメント
おかしいな。
寺門静軒の記念碑も、源内の墓域内にあると、何かで読んで、そのことをここに報じたはずなのに、記録されていない。
再び記すが、あの墓域では目につかなかったような---。
投稿: ちゅすけ | 2007.03.01 16:20