久松松平家と長谷川平蔵家の因縁
2007年4月21日[寛政譜(17)]に、辰蔵宣義(のぶのり)が幕府に上呈した[先祖書]の6代当主・権十郎宣尹(のぶただ)が病気から再起して、
延享四丁卯年(1747) 再御奉公 奉願同年
五月十二日 西丸小姓組 松平長門守え御番入
被命
と書き出していることを報告した。
この、西丸小姓の第1組の番頭の松平長門守定蔵(さだもち)については、2006年5月6日[脇ばし、2つ]にある程度のことを記している。
その後の、久松松平家と長谷川平蔵宣以(のぶため)との陰の確執を理解するためにも、久松系の松平定実(さだざね)から発する[寛政譜]を掲げる。
青○=長門守定蔵、緑○=左金吾定寅(さだとら)
久松松平一門の成り立ちの経緯については、2006年5月6日[松平左金吾の家系]にゆずり、重複を避けたい。
さて、青○=長門守定蔵と緑○=左金吾定寅の項をアップ(部分省略)。
属親をカットして2人は親子関係だけをクロースアップしている。
ここでは、権十郎宣尹と短い縁(えにし)がつながった長門守定蔵の項をさらに取り出して読めるようにしてみよう。
年譜をつくってみる。
元禄16年(1703) 生
享保 5年(1720)前後 18歳 松平家へ養子に入る
6年(1721) 19歳 吉宗へ御目見
7年(1722) 20歳 遺跡相続 寄合
11年(1726) 24歳 中奥の御小姓として出仕
このころ婚儀、
内室は平野九左衛門長喜が養女
女(夭折)、男(28歳で歿)誕生
17年(1732) 30歳 従五位下長門守に叙任
寛政 2年(1742) 40歳 定浄(さだもと のち左金吾)誕生
母親は杉本氏
延享 3年(1746) 44歳 西丸御小姓組の番頭
宝暦 1年(1751) 49歳 西丸御書院番番頭
9年(1759) 56歳 大番の頭
11年(1761) 58歳 致仕
明和 8年(1771) 68歳 歿
名家にふさわしい、順当な栄達であり、長谷川平蔵宣雄のあわただしい養子縁組を拒むような遺恨はまったくない。
次には、権十郎宣尹の直截の上司だった、小姓組組頭・牟礼清左衛門葛貞(かつさだ)を検分してみたい。
ご興味のある鬼平ファンは、『鬼平犯科帳』にはその名がでていないが、史実では平蔵宣以の強烈なライヴァルだった松平(久松)左金吾定寅のあれこれを、この画面の右サイドバー[カテゴリー]欄 [092 松平左金吾定寅]をクリックして補習。
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