寛政重修諸家譜(4)
長谷川家の祖・紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)が三方ヶ原(みかたがはら)の武田信玄勢との合戦で戦死したことは、この『寛政譜(2)』で報告した。
正長には遺児が数人いた。
うち上の3人は浜松へ連れられていたが、幼なすぎた末児は、静岡城下郊外の瀬名(せな)村へ、中川と姓を変えてひそんだ。祖先の繁栄の地であった小川(こがわ)と、去った田中城から一字ずつとった姓であるという。中川家はいまなお地元で旧家として遇されている。
遺児のうちの長子は、亡父がそうであった藤九郎を幼名としていた。
父の戦死後3年目の天正4年(1576)、13歳のときに家康の小姓として召された。
戦死者の遺族を手厚く遇さないと家臣はついてゆかない。
徳川家が江戸へ移ると、長谷川本家の筑後正成(まさなり)は1700余石を給された(のち分与し1451石)
屋敷は、一番町新道(千代田区三番町)に約1000坪。
長谷川一門の本家6代目の当主が、太郎兵衛正直(まさなお)である(『寛政譜』上から2段目の赤○)。
当家は、5代目までは小姓番組の平番士で終わっていたが、正直は先手弓の二番組の組頭、その後、槍奉行にまで栄進している。幹部としての才能が認められたのであろう。
先手組頭のときに火盗改メも拝命した。
鬼平こと平蔵宣以(のぶため)が就いた先手弓の組頭も、伯父・太郎兵衛正直が任じられていた二番手組である。
なにかの因縁があると推察しているが、いまのところ、報告するほどの材料は発見できていない。
平蔵の亡父・宣雄と、息・辰蔵宣義(のぶのり)が就いた組頭は、先手弓の第8番手組であった。
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