松平新次郎定為(さだため)
2007年5月4日の [寛政譜(21)]で、平蔵宣雄(のぶお)の組(与)頭(くみがしら)・松平新次郎定為のことを、「穏健で、むしろ無能とおもえるほど人のよい」と評した。
いや、美質を褒めたつもりである。
徳川政権も後半に入り、身分制度が硬直したかのように見える組織にあっては、自分から動く者は、周囲に嫉妬と軽蔑のさざなみを立てる。
定為のように、待つことに馴れている仁は、自分からは動かない。茫洋とした擬態が苔のように顔にはりついているものだ。
新次郎定為の『寛政譜』には、家督が35歳と遅かったこととともに、「実は帯刀定冬がニ男」とある。
定冬とは、初代・定寛(さだひろ)の長男だったが、「病により嗣たらず」と書かれている。
正妻ももたないで5男5女も産ませた定冬が、「病により嗣たらず」とは、なんの病いだったのだろう?
家督は初代・定寛の2男・定隆(さだたか)が継いだ。
定隆は3人の女子を得たのみ。それで、廃嫡された兄のニ男で甥・定為が養子となった。
ところで、始祖・定寛は84歳まで生きた。
2代目・定隆の享年は73歳。
定為は、家督したときには35歳になっていた。もちろん、末流とはいえ久松松平の一門である---家督するまでは24歳から書院番士として廩米200俵を得ていた。
こうした家庭事情を考慮して性格を推測した。
ちなみにいうと、定為も当時としては77歳まで長生きしている。西丸の先手・鉄砲の組頭を死の2日前まで務めていた。
まあ、先手の組頭は、番方(武官系)の双六でいう「上がり」(終着駅)みたいなものだから、終身しがみついていたとしても、非難はされない。
しかも、定為は69歳の宝暦4年に、嫡子・定岡(さだおか)に家督(1000石)を相続してしまっている。
ということは、邪推すると、先手組頭に給される格高1500石をそっくり頂戴していたともいえる。「茫洋」という表現を引きさげるべきかも。
ま、内実はそのようにしっかりしている仁だから、いろんな角度から平蔵宣雄の人柄を観察した末に、評価したのだろう。ただ、その評言を上へ伝えたかどうか。
宣雄の建言を、さもわが意見のごとくに、上へ話しただけってこともありうる。
いや、建言といっても、当時のことだから、倹約の手立てについてのものだったかもしれないが。
宣雄にとって幸い(?)だったのは、新次郎定為が、じっと死を待ちながら勤めていた先手組頭のときでなく、まだ生きることにゆとりをもっていた57歳から足かけ7年間だけの、定為との接触ですんだことだったとも思える。
【メモ】始祖・定寛は、麻布・閻魔坂ぞいの崇厳寺(すうごんじ)に葬られ、代々の葬地だったがいまは墓域のみ移転。
坂名の由来は、赤○=崇厳寺の閻魔堂によるといわれているが、先が行きどまりで通り抜けられない---にかけているようにも思える。
左下の5緑○=先手・鉄砲の第7番手の組屋敷。ここの坂名---御組坂のゆえん。別に龕前坊(がぜんぼう)谷とも。火葬がおこなわれたからの谷名。
『鬼平犯科帳』 [1-5 老盗の夢] に〔火前坊〕の権七という盗人の呼び名はここからきている。
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コメント
松平新次郎定為は西の丸書院番組頭の後、先手鉄砲組み組頭になったわけですね。書院番組頭と先手鉄砲組組頭とでは両方とも警護の役と思うのですが格的には相違があるのですか?
投稿: みやこのお豊 | 2007.05.07 01:16
書院番の組頭は1000石格(定為の家き家禄が1000石なので、足高はなし)。
先手組頭は1500石格なので、定為は500石の足高を給されますから、出世といえます。
投稿: ちゅうすけ | 2007.05.08 04:18