本多伯耆守正珍のエピソード
2007年5月7日[本多伯耆守正珍(まさよし)]で、静岡県立中央図書館に、この老中の性格を類推する史料が少なすぎた---と嘆いた。
この日の午後、SBS(静岡放送)学苑パルシェで4年来ともに学んでいる[鬼平]クラスの安池さんに、ついでがあったら田中藩があった藤枝市の図書館か、藤枝資料館をあたってほしい---と依頼しておいた。
中央図書館で『現代語訳 田中藩史譚』まで辿りつきながら、時間がなくて見逃した、つぎのようなエピソードが、安池さんからメールされてきた。
談叢第一(藩主略伝)
第七世 克亨公(正珍)(まさよし)
板倉修理の江戸城中刃傷事件
延享3年(1746)正珍公は老中を拝命した。
延享4年8月は公が月番に当たっていたが、その月の15日、江戸城で細川越中守宗孝に斬りつけた者が居り、城内は大騒ぎとなった。
これより先、板倉修理は本家の板倉周防守勝清を恨み、ここ幾年か仕返しの時機をねらっていた。
たまたま城中で細川越中守の九曜の紋所を遠くから見て、それを板倉家の九つ巴と勘違いして、その衣装を着た越中守を背後から斬った。
正珍公はその時、登城の途中で、人々が大騒ぎしているのに出会(でくわ)して、心中、何事かと怪しんだ。
城門にさしかかると、騒ぎはますますひどくなった。目付の役人が慌ただしく公を迎えて城中の事件を伝えた。
ついで、大目付もまた出迎えた。
公は静かにうなづき、諸門の閉鎖を命じ、事の次第を問いただして、真相を了解すると、直ちに門外の者に対して、「細川越中守を傷つけた者は旗本の板倉修理である。」と告げたので、人々の心はやっと静まった。
石竹の水かけ
公は石竹を好んだ。ある夏、永いこと雨が降らなかったので、渋川貞蔵に水をかけるように命じた。彼は袴の股立ちを取り、水を入れた桶を一荷担いで来て、桶を傾けて、ざんぶり水をかけたので、石竹はそれに耐えられず、地面に倒れてしまった。公は後に、
「いやしくも武士たる者に、こんな事をさせたのは不覚の至りであった。」
と言って笑った。
孝心
公は至って孝心に厚く、老中を退いてからは、自ら質素倹約につとめ、飲食服飾をきりつめたが、母君には不自由な思いをさせぬよう、手厚くいたわった。
慈悲心
公は寛大で慈悲深く、罪人に対する刑さえ執行するに忍びないというところがあった。死刑該当者があっても、もし母君が命乞いをすれば、寛大な処置をしたという。
二葉町での老後
公は老後を二葉町の邸で過ごした。田中からやって来てご機嫌伺いをする者があれば、その家柄にはお構いなく、裏の庭園を自由に見物させ、彼等の喜ぶ様子を見ては楽しんだという。
(注:田中藩の芝二葉町の中屋敷は安永(1780)まで、土橋の西突き当たり---近江屋板切絵図・赤○の西にあったが、近江・大溝藩(分部若狭守 2万石)上屋敷に収公され、赤坂三河台へ移転。
正珍は隠棲しても駿河へ帰国しなかったのは、諸侯との交遊もあったためか)。
談叢第二(藩士略伝)
丹波長喬(ながたか)
丹波平治兵衛長喬は克亨公の守(もり)役となり、彼の仕法によって輔導をした。
公は学問を好み厳しい日課を設けて勉励した。
母の広寿院は勉強の度が過ぎると心配し、文をしたためて時には休養もせよと勧めたが公は従わなかった。
寛保2年(1742)6月長喬が病に伏すと、公は彼をいたわり、自ら薬まで煎じてやるほどであったが、そのかいなく病状は悪化した。長喬は再起不能を知ると、薬を断って程なく没した。
公は後に老中を拝命した時「自分がこのような大任をかたじけなくしたのはひとえに彼の教導の賜である。」と言い、急いで駕籠を用意させ、その墓所に詣でて供養をした。以後彼の命日にはいつも遺族に贈り物をし、その後、浅草徳本寺の本多家先祖の墓地のある所に改葬した。
これだけの史料が入手できたのだから、、本多正珍の性格は、ある程度、類推できようというもの。江戸城・菊の間で跡目相続の許しを伝えられた平蔵宣雄へも、予想どおり、案外、気軽に声をかけたかも。
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コメント
さすが地元ですね。こんなに詳しいエピソードが資料として残されているとは。
これによって、5月1日の「Who's Who・宣雄異例の出世」のちゅうすけさんの推理が実証されますね。
投稿: みやこのお豊 | 2007.05.11 06:30
>みやこのお豊さん
ぼくの推理よりも、ぼくが見逃した史料を見つけたSBS学苑パルシェ[鬼平]クラスの安池さんの迅速な行動と熱心なご勉学態度を賞賛しましょう。
ともにこうして学んで行くからこそ、ほかの鬼平ファンのグループとは一味もニ味も違ったグループなのです。
投稿: ちゅうすけ | 2007.05.11 08:22
早速、掲載していただいて恐縮です。本多正珍ですが、地元の身びいきかもしれませんが、やり手というよりは、秩序を守り公平無私の人というイメージをもっております。平蔵宣雄についても、きっと正当な評価をしてくれたと思いますが、それも、直属の上司の組頭・番頭の評価をまってというような気も致しますが
投稿: SBS学苑鬼平クラスの安池 | 2007.05.11 13:29
安池さんからのメールのコンテンツに、「本多伊賀守正珍は江戸の中屋敷で歿し、徳本寺に葬られた」とありました。
浅草の徳本寺は、池波家の菩提寺の斜向かいにあり、[鬼平]クラスはご住職から本多正信やその内室の肖像画を拝観させていただいています。
きょう、正珍が葬られたっという、徳本寺へ、墓域の写真でもとおもい、行ってきました。
が、檀家ではあるが、墓は青山墓地へ移ったって言われました。
明治か、大正のころですね。青山墓地には何千という家の墓があります。
末裔の名前が分からないと、訪ねるすべがありません。
青山墓地へ移したぐらいですから、政府内か東京府庁内で、相当いい地位にいた可能性がありますね。
投稿: chuukyuu | 2007.05.11 14:40