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2007.05.14

本多伯耆守正珍の勉強

平蔵宣雄(のぶお)へ、西丸・書院番士としての出仕を申しわたした月番老中・本多伯耆守正珍(まさよし 田中藩主 4万石)が、田中城のよしみで、宣雄に声をかけたか、その後もなにかと後ろ楯になった可能性をさぐるために、伯耆守正珍のあれこれについて史実の断片を集めて、類推の資料としている。
2007年5月11日[本多伯耆守正珍のエピソード
2007年5月12日[細川越中守宗孝の刃傷事件
2007年5月13日[細川越中守宗孝の刃傷事件(2)

細川越中守宗孝(むねたか 熊本藩主 32歳 54万石)が江戸城の大広間の北の落縁にある厠(かわや)前で、背後から寄合・板倉修理勝該(かつかね 6000石 35歳?)にいきなり斬りつけられた事件は、延享4年(1747)8月15日の午前8時すぎに起きた。

鬼平熱愛倶楽部のメンバー---みやこのお豊さんがネットで検索したところ、江戸城内で起きた7件の刃傷事件のうち、これは5番目にあたるという。

この前に起きた4番目の事件fは、22年前の享保10年(1725)7月28日に水野隼人正忠恒(ただつね 松本藩主 25歳 7万石)が突然狂気し、毛利主水正師就(もろなり 長州・府中藩主 20歳 5万7000石)に斬りつけたもの。

25年前といえば、本多正珍は16歳だったから、事件そのものはかすかな記憶であったろうが、その後、28歳で奏者番、30歳で寺社奉行を兼帯しているから、この手の事件の処置については、ある程度の知識があったかもしれない。

それよりも、事件後は全閣僚や大目付、奉行もただちに出仕して討議をこらしたろうから、その手続きは、正珍のものとはいえまい、
その時の閣僚をとりあえず記しておく。

・老中
 酒井雅楽頭忠恭
 西尾隠岐守忠尚
 堀田相模守正亮
 松平右近将監武元
 本多因幡守正珍
・若年寄
 板倉伊予守勝清
 戸田右近将監氏房
 加納遠江守久通
 三浦志摩守儀次
 秋元摂津守凉朝
・大目付
 河野豊前守通喬
 水野対馬守忠伸
 石河土佐守政朝
 土屋美濃守正慶
・町奉行
 馬場讃岐守尚繁
 能勢肥後守頼一
・寺社奉行
 大岡越前守忠相
 山名因幡守豊就
 小出信濃守英智
 酒井修理大夫忠用

これだけの老練・豪華な顔ぶれがいるのだから、新参の本多伯耆守正珍がしゃしゃり出て発言することはあるまい。

それで、SBS学苑パルシェ[鬼平]クラスの安池さんからメールでいただいている、『現代語訳 田中藩史譚』(仲田義正 1994.9.1)を読み返した。

丹波長喬(ながたか)
丹波平治兵衛長喬は克亨(正珍の法号)公の守(もり)役となり、彼の仕法によって輔導をした。
公は学問を好み厳しい日課を設けて勉励した。

100_35ふむ、と、手元の上・下で2100ページを越える笠井助治さんの大著『近世藩校に於ける学統学派の研究』(吉川弘文館 1969.3.30)で、田中藩の項を開いた。

田中藩主本多氏は享保十五年(1730)、正矩が上野沼田四万石から駿河田中城に移り、子孫相承して田中を治めていたが、明治元年(1868)、正訥(まさもり)の時、安房に移封し、長尾城に治した。従って本多氏の田城は、享保から明治元年まで、百四十余年の治世である。
○正武-正矩-正珍-正供-正温-正意-正寛-正訥-正憲-正復
藩校・日知館の創設は、天宝八年(1837)である。時の藩主、正寛は儒官石井耕、師範熊沢惟興、家老職遠藤喜平、都築弥助、黒田庭筠に命じて、学校を田中城内一の丸。大手東角に創立し、藩士子弟に文武の教育を授けた。万延元年(1860)、藩主正訥は、さらに江戸在府の子弟のため神田の藩邸内にも学問所日知館をいとなみ、芳野金陵及び桐野逸蔵を師範として教授に当たらせた。

ここまで読んで、「まてよ」と足ぶみ。
正珍が本多家の長子が襲名する三弥時代を送った江戸の藩邸---父・正矩が沼田藩主の時代なら中屋敷は赤坂今井、田中藩主となった享保15年(1730)、三弥21歳以後なら神田橋外にあった中屋敷ということになる。
ま、いずれにしろ藩校は関係ないとしても田中藩の学統は、笠井助治さんいうところの折衷学派---徂徠に古学を加味したものらしい。
守役・丹波長喬も折衷学派に基づいて三弥を教えたのであろうか。

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コメント

細川越中守宗孝(むねたか 熊本藩主 32歳 54万石)が、傷からの出血がもとで翌日死去。ということで、斬りつけた寄合・板倉修理勝該(かつかね 6000石)は26日に切腹。

その25年前、水野隼人正忠恒(ただつね 松本藩主 25歳 7万石)が、毛利主水正師就(もろなり 長州・府中藩主 20歳 5万7000石)に斬りつけた事件は、師就が死ななかったので、忠恒はお預け。改易もなし。

田沼意知は出血多量で2日後に死んだので、佐野善左衛門は切腹。

吉良上野介は傷だけで死んでないんだから、前例(?)どおりだと、浅野内匠頭の切腹、改易は、たしかにおかしい。時代が藩取り潰しに懸命だったころだからかなあ。

投稿: ちゅうすけ | 2007.05.14 17:42

井沢元彦さんの「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」という本では、浅野が乱心の体に見えてしかも吉良が死ななかったにもかかわらずお取り潰しになったのは、勅使接待役に任命した綱吉自身がいわば任命責任を問われることを嫌がって特に浅野を厳しく罰することで朝廷にいい顔をしようとした、と推理しています。また大石内蔵助はその裁定が前例より厳しいことへの抗議の意味で「喧嘩なら両成敗のはずだ」というメッセージを込めて討ち入りに及んだ、という説を提唱されています。

投稿: えむ | 2007.05.14 19:20

>えむ さん
なるほど、朝廷に対するそういう責任問題もありますか。
綱吉の時代ですよね、一事一様---という法律論がでてきたのは。それまでは一事両様で、情状酌量の範囲が大きかったんだそうです。

投稿: chuukyuu | 2007.05.15 16:43

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