田中城の攻防
長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、牛込加賀屋敷の三枝(さいぐさ)備中守守緜(もりやす 6500石)邸を訪ねていた。
宝暦8年(1758)11月某日。
過日、小十人頭先任の同役・6番組頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 2000石)から、三枝家の祖・右衛門尉虎吉(とらよし)、息・土佐守昌吉(まさよし)が、武田方の守将として駿州・田中城にこもり、家康軍の猛攻にもよく耐えていた史実を聞かされた。
宣雄の祖で今川の将だった長谷川紀伊(きの)守正長(まさなが)も、田中城にこもって武田信玄に攻められ、善戦したがもちこたえられず、城をでて徳川家康の陣営に走っていた。
それで、大久保99家、本多100家といわれる中の本多伯耆守正珍(まさよし)が田中藩(4万石)の前藩主なので、同流の采女紀品が、宣雄に徳川・武田の田中城攻防譚を持ち出したのだ。
采女紀品とすれば、西丸・書院番士時代の宣雄の番頭・伯耆守正珍と田中城の史実を結びつけることで、宣雄を自分の派へ引きつけようとしたのであろう。
田中城の史実に興味を感じた宣雄は伯父で本家の当主・長谷川小膳正直(まさなお)に、三枝家への伝手(つで)の有無をたしかめた。
「平蔵ともあろうお人が、とぼけたことを---」
正直は笑って、
「〔御納戸町の〕の隣家が、三枝どのの本家だよ」
〔御納戸町の〕とは、長谷川一門でも4000余石の大身・長谷川久三郎正脩(まさむろ)の屋敷をさす。
(赤○=長谷川正脩邸。緑○=加賀屋敷の三枝家 尾張屋板)
元亀3年(1572)の三方ヶ原における武田信玄軍と家康軍の合戦で戦死した長谷川紀伊守正長の3人の遺児が浜松に残された。
家康は、その遺児たちを家臣として取り立てる。
藤九郎の相続名を継いだ長男・正吉(まさよし)が、本家・小膳正直の祖。
次男・宣次(のぶつぐ)の末が、宣雄。
三男・正吉(まさよし)は、将軍・家光の寵をえて4000余石を給され、屋敷も御納戸町に3000余坪を賜った。
その末が久三郎正脩である。
(長谷川一門の系図)
正脩は七代目当主なので、本家の正直、第一支家の宣雄とは従兄弟同士。
養子にきて、前年---宝暦7年暮れに41歳で家督したばかりで、寄合に入れられているが、出仕はしていない。
「〔御納戸町〕のご隠居なら、田中城の史実にも詳しく、隣家とも親しかろうよ」
〔御納戸町のご隠居〕とは、西丸・持弓頭を最後に50歳で致仕した讃岐守正誠(まさざね)がことである。
眺山と号して、漢詩づくりと鉢植えの世話に精をつくしている。
宣雄は、その讃岐守正誠の口ききで、こうして備中守守緜を訪ねている。
50歳の守やすは奥の小姓をしているので、宣雄の非番の日が重なるのに手間どった。
田中城の攻防の史実を、こんなふうに話してくれた。
元亀元年(1570)、信玄は、長谷川紀伊守正長から奪った一色城(のち信玄により田中城と改称)に馬場美濃守信房(のぶふさ)に命じ、三日月堀などを増築させた。
「長谷川どのの抵抗もはげしく、城の諸施設はかなり荒れていましたそうな」
備中守守緜は、宣雄を立てるように、付け加えた。
城のその後の守将は、山県右三郎兵衛昌景(まさかげ)、板垣左京亮信安(のぶやす)、そして地元出身の朝比奈又三郎真直(さねなお)が光明城(現・浜松市の天竜地区山東光明山)から移ったときに、家康が攻めたが陥ちなかった。
天正8年(1580)、家康は三度目の城攻めをかけたが、このときも陥ちなかった。
「天正10年(1582)2月、大権現さまが甲州へ侵攻なされたとき、堀が埋められたのちに、酒井佐衛門尉忠次(ただつぐ)どの、本多平八郎忠勝(ただかつ)どの、榊原小平太康政(やすまさ)どのら1万余に攻めたてられ申した。
武田方の守将は依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ)どのとわが三枝の兵でありました」
徳川方の記録は、信蕃が降伏を乞い、大久保七郎右衛門忠世(ただよ)に城を開けわたしたとなってい、勝頼の死うんぬんは省かれている。
聞き終わって礼を述べ、あいさつをしておくために、隣の〔御納戸町〕の長谷川家へ立ち寄りがてら、
(戦記というものは、自分方に都合のよいように書かれるとの、母御の教えのとおりじゃ)
とひとりごちていた。
いや、戦記にかぎるまい。史料の多くは、そういうものなのだ。
【つぶやき】4000余石の長谷川正脩の嫡子・正満(まさみつ)には男の子がなかつたので、鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の次男・正以が養子に入った。鬼平のすご腕ともいえる。
また、上記とは無関係だが、『鬼平犯科帳』文庫巻1[座頭と猿]に登場する凶悪な〔五十海(いかるみ)〕の権平と巻8[狐火]に出ている〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七は田中城のある藤枝市の地名、巻4[五年目の客]に登場する盗賊---〔羽佐間(はざま)〕の文蔵は隣の岡部町の地名。
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コメント
≫(戦記というものは、自分方に都合のよいように書かれる,いや、戦記にかぎるまい。史料の多くは、そういうものなのだ)≪
そうなんですね。
松平定信が書かせた「よしの冊子」で田沼意次に対する風評の不確かさを学びました。
歴史を読む時の注意点ですね。
投稿: みやこのお豊 | 2007.06.01 12:55
三枝(さいぐさ)家の『寛政譜』に、田中城の守将は蘆田右衛門佐信蕃とあり、武田の武将ーの中に蘆田がみつからないので、半日探索。依田のミスプリとわかるまでに4時間もつぶしました。これは、ミスプリで、歴史のいいとこ取りではありませんが。
投稿: ちゅうすけ | 2007.06.01 15:41
「依田右衛門佐信蕃」の別名が「蘆田右衛門佐信蕃」ではないでしょうか。
依田右衛門佐信蕃の出身地が信州佐久の芦田(今の立科町)で芦田城主でした。
現在は北佐久郡立科町茂田ヰに二重の空堀の跡だけが残っています。
芦田とも名乗っていたようで立科町の民話集にも(芦田のとのさま)として依田右衛門佐信蕃の生涯が収められております。
『寛政譜』のミスプリではなくて、依田とも蘆田とも呼ばれていたのだと思います。
信蕃は常に最前線で勇名をはせていましたが、若くして戦死し、子孫が名前を何度か変えていますね。
投稿: みやこのお豊 | 2007.06.01 19:58