« 田沼邸(3) | トップページ | 石谷備後守清昌 »

2007.07.28

田沼邸(4)

源内(げんない)どの。よい機会だから、お引き合わせしておこう。こちらは、佐渡奉行の石谷(いしがや)備後守どのじゃ。佐渡の薬草探しを見てあげてくれ---と申したいところなれど、石谷どののご在任はそう長くはない。石谷どののご出府中に、相番の荒川助九郎匡富(まさよし 1000石)どのに顔つなぎをお願いしておくがよろしかろう。佐渡は〔くまのい〕などがよく育とうよ。なにしろ、対岸は朝鮮じゃによって---」
田沼意次(おきつぐ)は冗談めかしたが、平賀源内はそうはとらなかった。
「〔くまのい〕は、新しい土でないと、うまくないですからな」

佐野与八郎石谷清昌(きよまさ)にそっと訊いた。
「佐渡にも、熊がおりますか?」
それを耳ざとい源内が聞きつけ、
「くまのい〕と申しても、山に住む熊のことではありませぬ。人参でござる。朝鮮人参からつくった丸薬」
「迂闊(うかつ)でした」
主殿頭(とのものかみ 意次)どのが仰せられたのは、佐渡は気候が朝鮮のそれとよく似ていようから、朝鮮人参の栽培にも適していよう---と」
長崎における清国からの大きな輸入ものの一つに朝鮮人参などの医薬用の薬草があった。それを、国中で探して、いささかなりとも金銀の支払いを少なくするというのが、有徳院(吉宗)の時代からの公儀の方針でもあった。
その薬草探しに長(た)けているのが、平賀源内の特技の一つだった。

吉宗が命じた輸入減らしの品目には薬草のほかに、絹呉服、鹿皮、木綿などもあった。養蚕の振興と木綿の栽培はけっこう根づき、ひろまっていた。砂糖黍(きび)も試植された。

源内どの。石谷どのは、いずれ、長崎奉行にもと嘱目されているご仁。よくよくおん覚えをよくしておくようにな」
「それは重畳(ちょうじょう)。石谷どの。よしなにお願いつかまつりましょう」
「かしこまりました」
朴訥な石谷備後守は、素直にうけとっている。が、じつは、その後、石谷は長崎奉行となり、現地で源内の世話をみることになろうとは、この時はだれも予想していなかった。

「それから、源内どの。こちらの本多紀品(のりただ)どのは、まもなく目付におなりになる方じゃ。おことのような、無頼非常の徒は、一番にお世話になりかねないゆえ、いまから親しくなさっておかれい」
意次は、源内をつぎつぎとたくみに引き合わせていく。
これでは、いちど交誼を得た者は、みごとに田沼派にくみこまれる。
(よき人ばかりなら申すことはないが---)
宣雄は、事前に慎重に人選びをしている意次を思った。

|

« 田沼邸(3) | トップページ | 石谷備後守清昌 »

020田沼意次 」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 田沼邸(3) | トップページ | 石谷備後守清昌 »