『よしの冊子(ぞうし)』(8)
『よしの冊子(ぞうし)』をまともに説明しておこう。
『よしの冊子』は、一橋治済(はるさだ)や水戸侯などの暗躍で田沼政権が倒れたあと、門閥派プリンスの松平定信が老中の座についたその日から、学友で側近の水野為長が四方八方へ隠密を放って情報を集めたその記録。
文が「なんとかのよし」でしめられているので「よしの冊子(ぞうし)」と一般に呼ばれている。
もっとも、最初のうち、隠密たちは反田沼派のところへ行って、定信が喜びそうな噂話を集めたフシがある。
記録は門外不出とされていたのに、ひょんなことから洩れたが、幕府や各藩の上層部についての記述は桑名藩(定信の藩は白河からもともとの桑名藩へ復帰)の家老の手で、意識的に抹消された気配がある。
当初は定信と縁つづきの松平左金吾をもちあげ、だが、長谷川平蔵をくそみそに書いていたのが、のちに評価が正当になっていくのがおかしい。
よしの冊子(寛政元年5月12日より)
一. (長谷川)平蔵は加役で功を立て、とにかく町奉行になるつもりのよし。人物はよろしくはないが、才略はある様子。
一. 松平左金吾がこのあいだ四ツ(午前10時)のお召しで登城したところ、加役中、出精し、かつ与力同心も骨折って勤めていることが上聞に達しご満足に思し召しているとの、お言葉のご褒美をくださったよし。
これまでの加役にはなかったこと。これは畢竟、愛宕下のご縁のせいだろう。
左金吾どのはいろいろとむずかしくいい出し、町々ではそこそこ困っていた。
この仁の加役が終わって悦んでいるとは、みんな口ではいわないが。
一. 長谷川平蔵はいたって精勤。
町々は大悦びのよし。
いまでは長谷川が町奉行のようで、町奉行が加役のようになっており、町奉行は大いにへこんでいるとのこと。
なにもかも長谷川に先をとられ、これでは叶わぬといっているよし。
町奉行もいままでと違い、平蔵に対しても出精して勤めねばならぬようになり、諸事心をつけていると申されたよし。
町奉行もとかく平蔵へ問い合わせているていたらくとか。 (出所:町奉行所の与力か同心か) 。
【ちゅうすけ注:】
このときの町奉行は、
北……初鹿野(はじかの)河内守信興(のぶおき) 45歳
1200石
武田系名門の依田家から養子。この2年後に、平蔵の銭相場の
片棒をかついだことを苦に病んだか、病死。
南……山村信濃守良旺(たかあきら) 61歳 500石
屋敷:赤坂築地中ノ町(現・港区赤坂6丁目)
在任中に病死した宣雄の後任として京都西町奉行に着任。
残された平蔵の面倒をなにくれとなく見てくれて以来の親平蔵
派。京都町奉行時代、禁裏役人の不正の探索の秘密命令を受け
ていた。
4か月後に大目付へ栄転。後任は池田筑後守長恵(ながし
げ)。平蔵のライヴァルのひとり。
【参考】山村信濃守良旺
『夕刊フジ』の連載コラムに書いた長谷川平蔵の[銭相場の真相]---。
火盗改メの長官・長谷川平蔵は、盗賊・博徒の逮捕に顕著な実績をあげていた。
しかるに役人仲間からよくいわれなかった要因の一つが、銭(ぜに)相場に手をだしたこと。
為政者としての武士にあるまじき行為というわけだ。平蔵には彼なりのいい分があったのだが……。
天明の飢饉で、江戸に無宿人がふえた。無宿人=人別帳にのっていない、いわゆる無籍者だ。
無宿人は、追放刑をくらった者、たたきや入墨刑の仕置をすませた軽犯罪者、離農者や勘当された無実の者…に大別された。
天明期に急増したのは、食えないために田畑を捨てて江戸へ流入した連中だ。
いまのホームレス同様、繁華地の橋のたもとや川岸に仮小屋がけしていた。
彼らを収容する施設の建設と運営というホームレス対策が、松平定信政権の急務の一つとなっていた。
火盗改メの対象は主に無宿人――長官・平蔵は人足寄場の創設と運営の実行責任者たるべく名乗りをあげざるをえなかった。
だが、非人だまりへ送りこむべき連中相手の仕事だから、格式をもった家柄の幕臣としては貧乏クジを引く羽目になったといえる。
にもかかわらず、彼は工夫と勤勉と慈悲心で人足寄場を成功させた。
平蔵の犯罪者観として伝わっているのは、罪を犯した10人のうち5人は更生できる……だった。ましてやまだ犯罪へ走っていない無実の無宿人のこと、手に職をつけさせれば立ちなおる。
定信内閣は、隅田川河口の石川島に築かれた人足寄場の初年度の運営費として米500俵と金500両を与えた。預けた無宿人の食い扶持料としてこれまで非人だまりへ渡していた額より少なかったらしい。
2年目には予算は40パーセント減、300両ぽっちに減らされされた。やっていけない。平蔵は、1両が6200文にまで下落中の銭の相場を操作することにした。
盗賊の侵入を未然に防いでやって親しくなった大商人からの借り知恵だった。
幕府から人足寄場名義で元手の3000両を借りだして銭を買う。
その上で、1町内に1店以上あった両替商たちを北町奉行所へ呼びつけ、町奉行の初鹿野河内守信興同席のもとで「銭の相場を上げるように」と申し渡した。
銭はたちまち5300文へはねあがった。平蔵は、買いおいた3000両分の銭を両替商たにに引きとらせて400両なにがしの利益をえ、全額人足寄場の運営費の不足分にあてた。
まさにこれこそ、才覚というものだ(いまなら、インサイダー取引にあたるかも)。が、世には人まねばかりで才覚なんかだせない輩のほうが圧倒的に多い。彼らの妬みから生じる非難は大波のように才覚のある仁を襲う。
「銭相場へ手を染めるなど、士農工商と最下級の商人の中でも下の下の商人のすること。日ごろ無宿人などに接していると志があれほどまでに落ちるものか」
非難は公式主義に拠っている。
老中首座・松平定信側の隠密が書いた文書は、この銭相場に「山師」なる評言をあて、これが定信の平蔵評となった。予算削減のことは棚上げして、だ。いやはや。唖然だ。
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