養女のすすめ(7)
銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以=小説の鬼平)の父・平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)が養女に迎えるといった女性と、その父・三木忠大夫忠任(ただとう)のことを考察している。
話は飛ぶが、平蔵宣以(のぶため)の継嗣・宣義(のぶのり 家督前の名=辰蔵)である。
その『寛政譜』を掲げる。この『寛政譜』のために「先祖書」を幕府に上呈したのが、家督した平蔵宣義であることは、再々、記した。
(長谷川宣義(幼名=辰蔵)の譜)
宣義の母親が、宣以の正妻・久栄(ひさえ 大橋家からの嫁入り)であることは、冒頭に書かれている。
譜の末尾に、
妻は永井亀次郎安清(やすきよ)が養女
とある。
いつだったか、永井亀次郎安清の『寛政譜』をのぞいて、驚いたことがあった。
永井家は譜代で、祖は、岡崎城に属する大浜の城主であった。徳川の水軍に近い存在らしかった。
家康が、命からがら伊賀越えて伊勢の白子(しらこ)から海を三河・大浜に向かったとき、船で出迎えたのが永井平右衛門重元(しげもと)であった。
伊賀越えの側近には、その嫡男・弥八郎直勝(なおかつ)がしたがっていたというから、因縁は深い。想像するに、白子から、弥八郎の従者が大浜へ急走でもしたのであろうか。
直勝は、その後、家康に重用され、淀城をまかされたりもしている。
『寛政譜』によると、永井一門は26家に増え、うち4家が大名。
もっとも、永井亀次郎安清は末の末、26家のどんじり近くに記されているが、それでも400石、両番の家格である。
(永井26家の家譜をまとめた最後の10枚目)
永井亀次郎安清の譜---子どもたちのところの女子に、
女子 実は橋場神明の神職・鈴木大領知庸が女、
安清にやしなはれて、長谷川平蔵宣義に嫁す。
とある。
橋場神明は、現在の石浜神社(荒川区南千住3-28-27)である。社務所に確かめたら、明治前の神職は鈴木家であったと。宮司家が代わっているし、史料も焼失とのことで、それ以上は不明とのこと。
永井安清の父・三郎右衛門安静(やすちか)の譜の末尾をみてほしい。
妻は松平大学頭家臣三木久大夫忠位(ただたか?)が女
三木家を媒介として、奇妙なところで、永井家と長谷川家がつながった。
そして、謎は、いよいよ、深まった。
| 固定リンク
「006長谷川辰蔵 ・於敬(ゆき)」カテゴリの記事
- 月輪尼の初瀬(はせ)への旅(4)(2011.11.05)
- 月輪尼、改め、於敬(ゆき)(4)(2011.11.26)
- 月輪尼、改め、於敬(ゆき)(2)(2011.11.24)
- 月輪尼、改め、於敬(ゆき)(3)(2011.11.25)
- 養女のすすめ(7)(2007.10.20)
コメント