30年來の疑問
『鬼平犯科帳』と『剣客商売』を読み始めて30年が過ぎた。
この間、ずっと疑問に思っていたのは、池波正太郎さんの田沼意次像の変遷についてである。
『鬼平犯科帳』巻1[血頭の丹兵衛]p90 新装p95にこうある。
先年、いわゆる〔賄賂(わいろ)政治〕の呼び声をたかめた老中の田沼意次(おきつぐ)政権が倒れ、田沼が失脚すると共に、松平定信政権がこれにかわった。
定信は、うちつづく天災や飢饉(ききん)の後に起った人心(じんしん)の荒廃(こうはい)と経済危機を、武家と農村との結合による〔質実剛健〕な本来の武家政治のすがたにもどすことによつて切りぬけようとしている。
『鬼平犯科帳』シリーズの第1話[唖の十蔵]が『オール讀物』に掲載されたのは1968年(昭43)1月号である。
『剣客商売』シリーズの第1話[女武芸者]に、ヒロインで老中・田沼意次の隠し子の佐々木三冬が『小説新潮』に登場したのは、5年後の1972年(昭47)1月号。
ここでの田沼意次は、スケールの大きい、「政事(まつりごと)は、汚(よご)れの中に真実(まこと)を見出すもの」で、それができる政治家とされている。p51 新装p55
5年間のあいだに、池波さんの田沼意次像を逆転させたのは、なんだったのか--ずっと考えてきた。
たとえば、賄賂取りの田沼意次を史料から否定した大石慎三郎さん『田沼意次の時代』 (岩波書店 1991 のち岩波現代文庫)がある。大石さんのこの画期的な著作のもとの論文が著作以前の史論雑誌などに発表されていたとしても、1968~72年とは、あまりにもへだたりがありすぎ、妥当とはおもえない。
じつは、田沼意次を好意的に視線で描いた小説に、村上元三さん『田沼意次』(毎日新聞社 1985 のち講談社文庫)がある。
もっとも、小説では賄賂のことにはほとんど触れていない。しかし、田沼意次を改革派の仁として描いている。
村上元三さんは、長谷川伸師の没後、新鷹会の会長を長くつとめられた。
『長谷川伸全集』全15巻の解説も一手になさっている。
さらに、近くは、同じは長谷川伸門下で、村上元三さんが逝かれたあと、新鷹会の会長に就かれた平岩弓枝さんが、女性的なやさしい目で田沼意次を見た『魚の棲む城』 (新潮社 2002 のち新潮文庫)を書いている。[魚の棲む城]とは、松平定信の怨念ともいえる命によって跡形もなく徹底的に壊された相良城のこと。相良港にいろんな舟が出入りするように、この城にさまざまな能才が出入りすればいいとの意味をこめた題名である。
こうして、長谷川伸門下の田沼意次関係の小説を並べていって、一つ気がついた。
すべて、長谷川伸師の没後に書かれていることである。
長谷川伸師の没年は1963年。
それで、はっとひらめくことがあった。
山本周五郎さん『栄花物語』(1953 要書房 のち新潮文庫)に、2人の若い幕臣の目でとらえた、それまでの教科書にあるのとは違う田沼意次像が描かれていること。
ひらめいた一つは、山本周五郎作品を論ずることは、新鷹会ではタブーみたいになっていたのかもという仮説。長谷川伸師も、山本周五郎さんもともに小学校卒まで。つまり、池波さんは律儀に、1968~72年まで『栄花物語』に手をのばさなかったと。
もう一つは、 『栄花物語』の田沼意次像を超える自信がなければ、田沼を書かないという作家としての心意気。
これから、平岩さんにでも、第一のほうの疑問をお聞きしてみよう。
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コメント
こちらではご無沙汰しております。
いままで、田沼に関するイメージについて、「栄花物語」のことが余り出てこないのを見落としていましたが、山本周五郎さんと長谷川伸さんの関係に言及されて、おお、それはあるかも!と思いました。確かに田沼について作家グループが論じようとしたら、山本作品に触れざるをえないですよね。
投稿: えむ | 2007.10.09 16:37
>えむ さん
池波さんが、早くから山本周五郎さんの『栄花物語』を手にしていたら、『鬼平犯科帳』の田沼像はありえなかったかも---と気がついたのは、じつは、おとといの静岡行の汽車の中でした。
ひらめきって、やはり、場所を変えないとダメです。
投稿: ちゅうすけ | 2007.10.09 17:28
平岩さんのお話を楽しみにしています。
池波さんは、山本周五郎をどのように思っていたのでしょうか。エッセーでも読んだ記憶がありませんが。間接的ですが、テレビの鬼平犯科帳の高瀬昌弘監督が「鬼平と80人の盗賊」のなかで監督が台本直しをし、演出をした「血頭の丹兵衛」について、「『俺のもんじゃなくて、山周だなア』と唯一言」言ったと書いています。(昭和44年の7月頃)。山本周五郎は既に昭和42年2月に没していたのに、その頃でもそんな影響力があったのでしょうか。
投稿: パルシェの枯木 | 2007.10.10 16:36
>パルシェの枯木さん
『剣客商売』で、田沼意次が松平定信派の刺客に襲われる場面がありますが、山本周五郎さんの『栄花物語』からの借用した思いつきですね。刺客の人物などは池波さん独自のものですが。
推定ですが、長谷川伸師のところでは、山本周五郎の話は禁物だったのでは。
それで、伸師が亡くなって、呪縛が解けたようにも思います。
投稿: ちゅうすけ | 2007.10.17 14:04