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2007.11.17

田沼街道(下)

相良には、田沼街道始点の標識が3ヶ所にある。

一つは、相良城跡の本丸跡---相良史料館の前庭。「相良城址」の石碑の脇にある。
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(この石碑の脇にささやかにたったいる)
まあ、城と東海道とを結ぶ街道と考えれば、ここに立てられていても不思議はない。

_2502つめは、萩間川(旧・相良川)に架かる湊橋の右岸(手前の城下町側)の近くにある大和神社の玉垣の角に立られている石の起点道標。
神社の石鳥居Iに社号額が掲けられていないので、神社名を地元の人もよく知らないようだったが、拝殿の庇の蔭にあがっていた。

3つめは、港橋の親柱の脇。
_360_2

まあ、どこが始点・起点であろうと、田沼街道そのものが、明治以来の交通手段の変化でズタズタに寸断されている現在、さほど気にすることもない。

田沼街道の終点---旧・東海道との合流点---は、旧・藤枝宿を貫通している瀬戸川に架かる勝草橋の下手である。

【参照】 〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七---文庫巻6[狐火]で、引退して先代〔狐火〕の勇五郎の遺児・お久を預かっている。

SBS学苑〔鬼平クラス〕の村越一彦さんは、藤枝市在住なので、終点に立てられている銘板を写してきてくださった。
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(田沼街道は旧・東海道に合流して終わっている)
_360_4

始点と終点はわかった。そのあいだの、ズタズタをどう結ぶか。
明治19年(1886)に作られた20万分の1[静岡]を前に、考えこんだ。東海道線の藤枝駅の建設が始まったのは翌明治20年だから、相良街道は、田沼意次(おきつぐ)の時代から、さほど変貌しないで測量されていると思った。

さいわい、街道筋の市や町の郷土史家の方々が、点と点をつなぐ研究をしておられる。
研究結果は、前出・村越一彦さんがコピーをくださった[田沼街道](『静岡県の街道』郷土出版社)のコピーで、ある程度うかがえる。筆者は、大井町文化財保護委員の山下二郎さん。
引用してみよう。

田沼街道は、田沼意次の城下町「相良」の萩間川(旧・相良川)に架かる湊橋を起点として藤枝市志太の瀬戸川河畔で東海道に合流するまでの延長七里(約27㌔)の道である。(中略)
相良築城と平行して進められた田沼街道建設工事は従来からあった下街道・小山街道の幅員を一間幅に拡張改修し、途中下街道が焼津・駿府(静岡市)へ向かう上新田で上新田村(大井川町上新田)の里道(さとみち)を利用、その先兵太夫新田(藤枝市高洲一丁目)で小山街道に出合うまでの間を新設したというべきである。いずれにしても現代とは違い農地が極めて貴重な幕藩体制下で、自領藩内はともかく他藩領や幕府直轄領にまで改修の手がつけられている。このことは、後世大老・老中首座の名をさしおいて一老中に過ぎない意次の加わる幕閣を「田沼政権」と評しているように、将軍家治の覚えめでたく権勢とみに秀で、他藩主や直轄領代官もこれに迎合して初めて成し得たものと言えよう。

街道は、相良城の落成祝いに出座する意次の国入りに間に合うように進められたろう。
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(明治19年の地図に田沼街道(推定)を赤インクで。東海道線は未敷設)

意次は、安永9年(1780)4月7日に江戸を出発、東海道金谷宿から牧野原越えして13日に相良入りしており、往路は整備された田沼街道を通らなかった。
帰路にこの道を選んだものの、意次は生涯でたった一度だけ、自家の名で呼ばれている街道を踏破したことになる。


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コメント

田沼街道は大井川を橋で渡っているんですよね。当時、東海道の島田宿・金谷宿に川会所を設けて通行人を取締り、旅人は川人足に担がれて川を渡ったといいます。川の水量が増した時は、何日も川留めをして、旅人は随分難儀したと聞きます。田沼街道と川会所は、直線距離にして2里程度でしょうか。急ぐ旅人は田沼街道を利用したこともあったかも。

投稿: パルシェの枯木 | 2007.11.17 20:48

>パルシェの枯木 さん
そうです、大井川川会所から、寺島や相川までは2里前後だったようです。
ただ、大井川の架橋は幕府が禁じていましたから、仮橋がかけられたのは、田沼街道](『静岡県の街道』郷土出版社)によると、明治8年だそうです。

ですから、田沼意次の下瀬渡しだったと想像しています。

投稿: ちゅうすけ | 2007.11.18 14:57

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