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2007.11.14

田沼意次の生年月日

_1002007年11月5日[山本周五郎さん『栄花物語』に、田沼意次(おきつぐ この時、老中)の誕生日が3月12日としてあり、生年は享保4年(1719)だから、物語の天明4年(1784)のこの日は、65回目の生誕の祝いにあたると書いた。

ともに学んでいるSBS学苑パルシェ〔鬼平クラス〕の安池欣一さんから、地元の相良の研究史家・川原崎次郎さん『城下町相良区史』は、意次の誕生日を享保4年(1719)7月28日としているとのコメントがついた。

で、安池さんにもすこし調べていただいたので、その全文を紹介する。


1.『城下町相良区史』の著者・川原崎次郎氏に電話しました。
氏は2~3年前に脳梗塞に罹られ、歩行にも苦労されております。
この11月4日に相良に行く前も電話しましたが、たいへんそうでしたので遠慮しました。
今回、電話して『城下町相良区史』に記載されている意次の誕生日の出典を確認したところ、『寛政重修諸家譜』だったかな」という返事で、それ以外はすぐには思い出せそうにもありませんでした。

2.相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』にも享保4年7月27日誕生と記載されているので、教育委員会へ問合せたところ、資料館の方へまわされました。
担当者の話では後藤一朗著『田沼意次 その虚実』(清水書院 1984.10.10 目下品切れ)だろうということでした(相良資料館の館長に電話確認)。

県立図書館には後藤一朗著『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』(大石慎三郎監修 清水書院出版)がありました。
そこには確かに「田沼意次 享保4年7月27日誕生」と記載されています。
清水書院のURL http://www.shimizushoin.co.jp/search/free.html

3.資料館に確認したところ、後藤一朗氏は相良の人で、静岡銀行に勤務されていたそうで、すでに10年以上以前に亡くなられています。

4.後藤一朗氏には別の著書『今日の相良史話』があります。
中に、田沼意次の菩提寺である駒込の勝林寺の意次の墓の前で、住職らしき人と写っている写真があります。
後藤氏はここで調べられたのかも。

5.相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』の表紙に使われている意次の肖像画の件もついでに確認しました。
あの絵は15~16年前に浜岡町の画家・鈴木白花氏が描かれたものということでした。画家・鈴木白花氏についての情報はありません。

6.意次の墓のある勝林寺(臨済宗 豊島区駒込7-4-14)に電話を入れ、住職の奥様と思われる方に確認。
命日を尋ねられたことはありますが、誕生日を尋ねられたことはあまりないので、過去帳を見れば解るでしょうが、今にわかにお答えしかねます。
静岡の方でしたら、相良の平田寺(へいでんじ)に位牌がありますから、そちらで解るかもしれません---とのことでした。
http://www.portaltokyo.com/guide_23/contents/c16036shorinji.htm


ということで、とりあえず、駒込の染井霊園の北はずれにある勝林寺の意次の墓へ詣でてきた。

_360

染井霊園と承知していたので、表示板で探したけれど、記載されていないので、霊園事務所で尋ねたら、勝林寺は霊園とは別で、意次の墓は勝林寺の墓域にあると。

勝林寺では、山門を入ったとたんに警報みたいなチャイムが鳴りひびき、墓域への扉に「田沼意次も記載されている小冊子200円」と張り紙がでていた。
納所へ申し出て200円払ったら、若い僧が意次の墓地を教えてくれた。
背後の目隠し様の塀は、裏手に家が建ったためだろう。

_360_2
(高さ2.5メートルほど。前面は戒名、右側面に従四位侍従 田沼主殿頭源意次朝臣)

なお、平田寺とともにこの寺へも意次が寄進した袈裟のことを尋ねたら、若い僧は、いつのころか「無くなった」と。


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コメント

後藤一朗さんの田沼本、たしか、この本かと思うのですが、平岩弓枝さんから『魚の棲む城』(新潮社 単行本 2002.3.30)をいただいたときに、「郷土史家の人のいい本があったの」と電話で話されたのを覚えています。

そのとき「あげましょうか?」といわれたけど、甘えもなんなので、謝辞しました。
いただいておけばよかった。

投稿: ちゅうすけ | 2007.11.14 16:13

お忙しい中、勝林寺さんまで、お出かけいただいて有難うございました。大事にしていただいているようですし、写真も小春日和といった感じで、何か安心しました。機会がありましたら、いつか訪れてお参りします。

投稿: 安池欣一 | 2007.11.15 10:42

辻善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3.17)によると、蓬莱町にあった勝林寺は、明治40年(1907)の本郷通りの道路拡張に伴い、墓地を染井へ移したが、その際、立派だった墓石は紛失し、ほかと合葬したと。
そうすると、勝林寺にいまある立派な墓域、墓石になんなのだろう?
辻さんの筆がすべったか?

投稿: ちゅうすけ | 2007.11.18 15:46

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