妻女・久栄(ひさえ)
大橋与惣兵衛の三女・久栄(小説での名)が、本所三ッ目(現・墨田区菊川3-16)の長谷川家へ嫁いで、銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため)の妻となったのは、明和6年(1769)と推定できる。
というのは、その前の年、明和5年12月5日に銕三郎が、将軍・家治へのお目見(みえ)をすましていること。
明和7年に嫡男・辰蔵の誕生をみていること---からの類推である。
平蔵24歳、久栄は小説のとおりの年齢差とすると、7歳違いの17歳。匂いたつような初々しい花嫁であったろう。
銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお)は、4年前の明和2年4月11日(この時、47歳)に、先手・弓の8番手の組頭へと大出世していた。大出世と書いたのは、長谷川家は両番(書院番士、小姓番士)の家柄とはいえ、宣雄以前の当主たちは、平(ひら)の書院番士のままで終わっていたからである。家禄400石の収入ままでやりくりしていた。
養子となった宣雄は、そのまじめな性格、心のこもった人使いぶり、公平な判断力が認められて、足高(たしだか)1000石の小十人頭、さらには同1500石の先手組頭へと累進していたのだ。
収入がふえても、宣雄は勤倹貯蓄にはげんでいた。本所三ッ目の1238坪の広い屋敷への移転もその成果といえる。
銕三郎の婚儀も、控えめなものであったろう。
それは、嫁・久栄の実家・大橋与惣兵衛親英(ちかひで)についてもいえる。家禄は廩米200俵(知行200石に相当)。
久栄を嫁にだした時は56歳。西丸の新番与(くみ)頭をしていた。
(久栄は39歳の時の子だから、後妻を迎えたのはその5年前とみると34歳。先妻を逝かせたのは30代の初めかも)>
久栄は、三女とはいえ、ニ女とともに後妻(井口氏)の子であった。
先妻(万年氏)がもうけた長女(仮の名・伊都 いと)が10歳になったころに逝き、伊都は後妻がくるとともに、黒田左太郎忠恒(ただつね 廩米250俵)の養女となったはず。
それというのも、左太郎忠恒の妻女は、大橋家の本家筋にあたる与惣右衛門親宗(ちかむね)のニ女で、その三男が大橋与惣兵衛親定の養子に入って家督していたという関係にあったからである。つまり、黒田忠恒夫妻は、養子先の息子のむすめ(つまりは、孫)が、継子となることを気づかったともいえる。
ま、そのことは、久栄にはあまり関係はない。
久栄は、井口家(新助高豊 小納戸 廩米200俵)から後妻にはいった女性の子なんだから。
久栄は、姉の不運をじかに見ていたので、夫・銕三郎(のちの平蔵宣以)によくしたがった。
姉は、亭主運にめぐまれなかった---というか、養女として出て行っていった長女の代理として、武家のむすめ役を演じなければならなかった。すなわち、家系の維持である。
姉の夫として養子に迎えた男たち2人が、ともに子もなさないうちに実家へ帰されたのである。
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