宣雄、小十人頭の同僚(4)
宝暦12年(1762)11月7日付の辞令で、宣雄(のぶお)の同僚、小十人組の頭(かしら)の本多采女(うねめ)紀品(のりただ 48歳 2000石)が、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭に就いたことは、この項の最初に書いておいた。
先手組頭は、1500石高だから、家禄が低い番方(武官系)の幕臣にとっては、のぼりつめた職位といえる。
(本多紀品の家は2000石だから、役料に足(た)りない家禄を補填する足高(たしだか)はなく、まあ、無役でいるより外見がいい---という程度と、本人は言っているが)。
のぼりつめた---そう、先手組頭は、番方の爺(じじい)の捨てどころ、とは言われていた。それほど、老齢化していたともいえる。
長谷川平蔵宣雄が、小十人頭(1000石高)に抜擢されたのは、宝暦8年(1758)9月15日、40歳の年であった。
それから足かけ8年後の、明和2年(1765)、47歳のときに先手・弓の8番手の組頭に栄転している。
家柄がきわめてよく、一門も多い本多紀品が先手組頭に転じたのは48歳、宣雄は47歳。
息子の鬼平こと平蔵宣以(のぶため)は41歳で先手組頭に選抜されている。
平蔵宣以の才幹が群を抜いてすぐれていたといもいえるし、閣僚たちが、先手組頭の若返りを図っての抜擢だったともいえる。
(じじつ、平蔵宣以が組頭に就任した天明6年の、平蔵をのぞく33人の組頭の平均年齢は61歳を超えていた。戦闘集団としての組頭に、1丁も走ると息があがるほどの老齢の仁がいることは理にあわない。しかし、70代はおろか、80歳をすぎた組頭もいたのである)。
平蔵宣雄の時代に戻って---。
宣雄が小十人頭に抜擢された宝暦8年の時点で同組頭だった者のうち、先手組頭に転じたのは、宣雄を含めて6人と、すでに報告してある。
その発令時の年齢が高かった順に並べてみる。
佐野大学為成 頭拝命時年齢 60歳(2年目に卒)
仙石監物政啓 59歳(7年後、持筒頭)
荒井十大夫高国 55歳(9年後卒)◎
堀甚五兵衛信明 51歳(13年後、致仕)
本多采女紀品 48歳(6年後、新番頭) ◎
長谷川平蔵宣雄 47歳(7年後、京都町奉行)◎
(◎=火盗改メ拝命)
宣雄以前の長谷川家は両番とはいえ、それ以上の役職に就くことがかなった者はいなかった。
両番とは、小姓組の番士、書院番士入りができる資格を持つ家柄のことである。
宣雄以後の、平蔵宣以、辰蔵こと平蔵宣義(のぶのり)ともに、役職に就けたのは、宣雄が初めて拓(ひら)いた道といえる。
本多紀品と仙石政啓の『寛政譜・個人譜』はすでに開陳している。参考までに、佐野為成と荒井高国の分を掲げておく。
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