与詩(よし)を迎えに
夕食に、母・妙(たえ)が同席した---といっても、膳はない。
「銕(てつさぶろう)に、駿府へ行ってもらわねばならぬ」
父・平蔵宣雄(のぶお 45歳)が改まって切りだした。
「あの、駿府でございますか?」
「そうじゃ。じつは、こなたの母者とも相談の上のことだが、養女を迎えることにした」
「また、養女でこざいますか?」
「また---とは、なんという言い草じゃ}
「申しわけございませぬ。して、どちらからでございますか?」
「駿府の町奉行(1000石高 役料500俵)・朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)どのの娘ごでの」
先手の組頭(1500石高)からの転任だから、ふつうの1000石高の遠国(おんごく)奉行では格下げになるということで、駿府になったのであろう。宝暦5年(1754)からだから、足かけ8年在任している。
妙が口をはさんだ。
「じつは、多可に従姉(いとこ)がいたことは知っておいででしょう?」
「はい。多可がわが家へ養女にまいるまえに嫁いでいたとか、聞きました」
「その、多可の従姉の嫁ぎ先が、朝倉さまなのです」
「え? 駿府町ご奉行の朝倉さまは、たしか、かなりのお齢とお聞きしておりますが---」
「この春、61歳におなりじゃ」
「すると---多可の従姉は---?」
妙が笑みをうかべて言う。
「20歳のときに嫁いだそうです」
「何年前のことでございますか?」
「5年前とか」
「朝倉さまは56歳!」
「これ、頓狂な声をだすでない。駿府町奉行ともなれば、奥方なしでは職務がうまく運ばぬ」
宣雄が制した。
妙が言葉をたした。
「3人目の奥方としてなのです」
「というと、養女にしますのは、まだ赤子?」
「そうではない。2人目の奥方のお子じゃ。齢は6歳。名前は、与詩(よし)」
「6歳の与詩でございますか」
「朝倉どのが正月から病いに伏されていての。奥方の志乃(しの)どの---多可の従姉のお名だが、志乃どのから、多可との縁が薄れないうちに、できるだけ早くと申されてきた。そこで、銕三郎、そなたに、迎えにいってもらいたいのじゃ。東海道は初めてではないからの」
「わたくしも、多可がいなくなってから、こころ寂しゅうて---」
母の妙が、さも、こころ細げにい言ったが、銕三郎のほうは、それどころではなかった。
(もしか---もしかして、三島宿で、お芙沙(ふさ)に再会できるかもしれない。お芙沙は、あの家にいるだろうか)
一晩だけ交わったお芙沙の、大胆にうごきながらもはにかむような姿態が、よみがえってきた。
(歌麿『若後家の睦』部分 芸術新潮2003.1月号より)
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)]
そんな銕三郎の心の動きを読んでいるだろうに、宣雄は無表情を装い、18歳---男子としては一人前の、わが子を眺めているのだった。
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