本多采女紀品(のりただ)(8)
「いたく、心得になりました。ありがとうございました」
式台のところで、父・宣雄(のぶお 45歳)が謝辞を述べる。
屋敷の主・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)は、
「それはともかく、近く、芝ニ葉町のご隠居を慰問しましょうぞ」
「けっこうですな」
ご隠居とは、駿州・益津(ますづ)郡田中藩の前藩主・本多伯耆(ほうき)守正珍(ただよし 55歳)のことである。4年前に老中を罷免され、そのまま隠居している。
「銕三郎(てつさぶろう)どの。今宵の巡視は深川から北本所だが、見習いがてら相伴(しょうばん)してみないかな?」
父をうかがうと、かすかに肯首があった。
「はい。喜んでお供いたします」
「では、四ッ(午後10時)少々前に、永代橋の東詰で待たれよ。馬でよろしい」
帰り道、人気がまったく絶(た)えている桜田濠端(ほりばた)で、先導している若侍・桑島友之助(とものすけ 30歳)が言った。
「若。今夜の見廻り、友之助がお供いたします」
「父上。よろしいのですか?」
「明日も非番ゆえ、登城はない。心配無用」
「それにしても、本多さまのお屋敷は、番町の番方々の中でも、一段と広いですね。納戸町の正脩(まさなり)叔父の屋敷とどっちがどっちというほど---」
「これ、銕(てつ)。屋敷の広さのこと、家禄の高低のこと、刀剣の優劣のことは、こちらから先に口にしてはならぬ」
「しかし、父上。わが家に火盗改メのご下命がありました場合---」
「よせ。まだ、先手の組頭(くみがしら)も拝命しておらぬ。火盗考察の任は、先手の組頭に下される」
(宣雄が先手組頭の栄進したのは、この時から2年後の、明和2年(1765)、47歳の時)。
納戸町の正脩とは、長谷川一門の中では、本家の1450余石を大きく上回る4070余石を給されている最も近い親戚筋、2家の一つである。
「本多紀品さまはご養子だそうですが、ご実家は、信州・飯山藩(2万5000石)のご家中とか」
「桑島。どこから、そのようなことを---?」
「お待ち申しています間に、さき様の用人どのから、聞きました。用人どのは35年前に、ご実家から、当時14歳だった紀品さまについて本多家へお入りになり、先の用人に不祥事があったために昇格になったとか」
「これ、よそ様の内情を、めったなことで口にしてはならぬ」
これ以後、帰宅するまでも宣雄は、深い考えに没入してしまった。
屋敷の広さを思案していたのだろうか。
ところで、宣雄に口どめされてしまったのでは、話がすすまない。
代わって、ちゅうすけが記すよりほかなさそうだ。
(本多采女紀品の個人譜)
本多采女紀品は、個人譜にあるとおり、信濃国飯山藩主・本多豊後守助盈(すけみつ)の家臣・本多弥五兵衛紀武(のりたけ)の子息である。
家臣といっても、藩主の一族で、江戸詰の重職---留守居役あたりであったことは、母の項を見るとわかる。
母なる女(ひと)は、石見国鹿足(かのあし)郡津和野藩主・亀井隠岐守矩貞(のりさだ 4万石)の家臣・阿曾沼五郎右衛門亮正(すけまさ)のむすめとある。
飯山藩士と津和野藩士が嫁のやりとりをするとなると、江戸詰か京詰の留守居役同士と考えるのが自然であろう。情報交換と称して、藩につけて、しばしば飲食を共にできる。
しかも、父・本多弥五兵衛紀武には、藩主の名に多い「紀」の字がふられている。一族か、それに近い家臣との想像がつく。
(本多紀品から50年ほど後の『文化武鑑』の飯山藩主)
時代は違うが、手元の『文化武鑑』(柏書房 1981.9.25)で飯山藩の20人の要職のリストを改めると、うち8人が藩主と同じ本多姓である。こんな高比率の藩はきわめて稀である。
機会があったら、飯山市の教育委員会か郷土史家の方に問い合わせて、本多弥五兵衛紀武の藩での地位をご教示願おうと考えているのだが。
飯山市の鬼平ファンの方のご教示だと、もっと嬉しい。
【付記】区図書館に、『大武鑑l』があったので、もっとも近い享保3年(1718)を見た。この年、本多紀品は4歳。
飯山藩の重職に、本多弥五右衛門の名は、やっぱり、あった!
(飯山藩にいた本多弥五兵衛 『大武鑑l』享保3年分)
津和野藩の重職欄に、阿曾沼五郎右衛門の名はなかった。この人の江戸留守居については再考の余地がありそうである。
(津和野藩 『大武鑑l』享保3年分)
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コメント
本多采女紀品の父・弥五右衛門紀武の名が、藩の重役としてあがっている『大武鑑』の享保3年は1718年。別に引用した文化元年は1804年。そのへだたりは約86年。
両武鑑の重役で、本多十郎右衛門家のほかで文化元年まで重役として家名を保っているのは、中島家のみ。
享保3年には4代前から信州・飯山藩に落ち着いているのに、86年間で重職がこれほど入れ替わった裏の事情---このブログが長谷川平蔵がらみでなければ、深入りして、政争の激しさ、それに絡んだ人間劇をいくつかの短編に書けそう。
『文化武鑑』の藩主・助受(すけうけ)の5代前と4代前の藩主は20代前半で病没している。このあたりも、なにかキナ臭い。
残り時間があったら、嗅ぎに行ってみたいところなのだが。
投稿: ちゅうすけ | 2008.02.19 07:32