ちゅうすけのひとり言(13)
ちょっと気ぜわすぎる嫌いもあるが、細井金右衛門正利(まさとし)を調べていて、気になったので---。
【参照】2008年6月11日[明和3年(1766)の銕三郎] (5)
細井家が、三河国八名郡(やなこおり)細井村の土豪で、家康の父・広忠からに仕えていた家柄であることは、上記に記した。
そのことは、『寛政重修諸家譜』の冒頭に記録されている。
始祖の弟・喜三郎勝宗(かつむね)と2代目・金兵衛勝久(かつひさ)を拡大してみる。
勝宗は、元亀3年(1572)12月22日、遠江国浜松の北・三方ヶ原での武田信玄の大軍との合戦で戦死している。
味方敗走するのとき殿(しんがり)し、二度まで小返して、従者木梨新兵衛某馬を牽(ひき)来て、これに乗せて引退かむとするといえども、敵いよいよ競ひきたるにより、しばしば取て返し、つゐに馬を乗はなち、敵と槍を合せ苦戦して死す。年三十五。
金兵衛勝久は、戦死した勝宗の7歳年少の弟で、三方ヶ原での参戦は28歳の時。
兄勝宗とともに(家康に)供奉し、勝宗敵にあたりて討死にせるのとき、勝久ただちに兄の首奪ひ、その敵を撃ちとり、なを殿して首一級を得たり。
勇武の兄弟である。
ところが、三方ヶ原の徳川軍の主だった戦死者60余名を記録している4冊の史書にその名が見えないのである。
このリストは、同じく三方ヶ原の合戦で討ち死した、徳川の家臣としての長谷川家の祖・紀伊守(きのかみ)正長(まさなが 35歳)と弟・藤九郎(19歳 一説には藤五郎とも)が属していた部隊などを推測するために、数年前に作成した。
その時も、かなり手を尽くして詳細を探索したが、ついに戦死の詳細はわからずじまいで、今日にいたっていた。
長谷川紀伊守正長は、その3年前には今川方の駿河・田中城主だったが、武田勢の猛攻にあって、一族をつれて浜松へ走り、徳川の軍門に入っていたのである。
そういう事情をもった武将は、たいてい先手にまわされるから、負け戦の時には早ばやと戦死することが多い。
その前の姉川の戦いにも、徳川軍の一員として参戦していた。
先手の部隊は、敗走時には殿となる。
細井喜三郎・金兵衛兄弟もそこに配属されていたのではなかろうか。
従者が馬を牽いてきた---とあるが、それまで徒歩だったとすると、武将の域には入っていまいから、史書に名が載らないこともあろう。
とにかく徳川軍は、この時は、大敗した。戦死者の数も1000名前後であったとか、いや、それ以上であったとか諸書にあるが、4書に名が残っているのは60余名。
つまり、長谷川紀伊守正長は、新参の武将ではあったが、それなりの扱いをうけていたとみていい。
告白すると、こんどの細井金右衛門正利の火盗改メの調査の件に触発されて、三方ヶ原の合戦の戦死者のリストをつくっていることをおもいだした。
取り出してみて、右端に[寛政譜]と記しているのを見て、作成時に、同家譜の確認という手間仕事をやっていたことの記憶もよみがえった(とはいえ、この欄は、その後、追補していなかった)。
しかし、冒頭の細井の家譜で示したような、[寛政譜]の一覧性を高め、かつ、配布可能なように貼り替えシートを全員に作成したわけではない。
それで、ほかの目的で一覧用貼り替えシートをつくっている家譜のうち、三方ヶ原での60名余の戦死者の家系がいくつあるかを確認してみると、19家22人---ほぼ3分の1であった。
ここまででも、ごたごたと、プログ1日分の記述としては重くなりすぎているので、ファイル区分ごとの家系名とかその意味づけは、明日---。
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