田中城ニノ丸(2)
駿州・田中城と長谷川家とのかかわりについては、すでに幾度も言及している。
しかし、あらためて、この記録は、再読ねがいたい。
5年つづいている静岡の[鬼平クラス](静岡新聞、同放送のSBS学苑。毎月第1日曜日午後1時~)の第1回からともに学んでいる中林さんのリポートと、その補記である。
藤枝宿の探索
【参照】ついでに、[ちゅうすけのひとり言] (15) (14) も。
新しい情報として、宮城谷昌光さん『新三河物語 中』(新潮社 2008.9.20)から、多くを引かせていただくがその前に---。
今川陣営の主要な拠点でもあった田中城は、義元とともに桶狭間で戦死した由井美作守正信(jまさのぶ)に代わって、長谷川紀伊(きの)守正長(まさなが)が守将として小川(こがわ)城から入ったものの、元亀元年(1570)、多勢の武田軍に攻められ、正長は浜松へ走り、徳川の傘下へはいったことは、上記の記録でお確かめを。
武田信玄は、田中城が枢要な位置にあることを見取って、馬場美濃守信房(のぶふさ)に命じて三日月堀や土塁(どるい)などを修築、堅固・威容を誇る城塞につくりかえさせた。
天正7年(1579)2月。
徳川家康は田中城の攻略と、甲州への進攻を同時に行う。
田中城の守将は依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ 35歳)であった。
3月にはいっても、田中城は落ちなかった。
が、勝頼はすでに自刃しており、穴山梅雪(ばいせつ)の親書が信藩のもとにとどいていた。
武田方が駿州に保持しているのは、田中城のみであった。
信蕃は、家康の使者・成瀬吉右衛門正一(まさかず 42歳)に言う。
「旧識のある大久保忠世がくれば、城をわたさぬでもない」
宮城谷さんの推察である。
このとき、大久保七郎右衛門忠世(ただよ 48歳)、信藩とは、二股城の明け渡しで信頼のきずなを結びあった仲であった。
忠世を待ちかねていた(山本)帯刀は、
「それがし、主命により、同行いたす」
と、いい、みずから副使となって城内にはいった。すずやかにふたりを迎えた信蕃は、
「また、雨になりそうです。霖雨(りんう)にならなければよいが---」
と、忠世にだけ意味ありげにいった。雨ふりには城を明け渡さないので、それがわかる忠世は幽かに苦笑した。
信蕃の左右には弟の善九郎と源八郎、それに副将の三枝土佐守虎吉(とらよし)が坐った。虎吉は老将で、この年に七十一歳である。かれの長男の勘解由(かげゆ)左衛門守友(もりとも)と次男の源左衛門守義(もりよし)は、設楽原合戦において五砦のひとつである姥(うば)ヶ懐(ふところ)を守っていて、討ち死にした。それゆえかれのうし後嗣は源八郎昌吉(まさよし)である。
「さて、右衛門佐どの、穴山さまよりお指図があったはず。すみやかに城の明け渡しをなさるべし」
忠世は個人的な感情をおさえていった。
「いかにも、うけたまわった。貴殿にお渡しする」
「証人は---」
「要(い)り申さず」
「では、明朝---」
何の問題もない。要するに信蕃は田中城を忠世以外のたれにも渡したくないために戦いつづけたようなものである。
宮城谷さんは、男と男の心情を描きたかったのであろう。
さて、家康からニノ丸の守りをまかされた坂本兵部丞貞次(さだつぐ 63歳)が信蕃の配下にいて篭城していたかどうかの確証はない。
いずれにしても、信長の武田遺臣狩りが、その死によって解けるまで、貞次もひそんでいたとおもえるのだが。
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